見出し画像

体験的自己帰属感について考えていること。

身体の延長感や拡張感はフィジカルな道具では自然な感覚として存在していましたが、デジタルツールにも拡張可能か?、あるいは実現するための条件とは何か?という身体的自己帰属感を中心とした研究が沢山おこなわれています。

このnoteでは、さらに拡張した自己帰属感として「体験的」なものについて考えてみたいと思います。

渡邊恵太さんの「融けるデザイン」は、フィジカルな道具がデジタルになったときにどのようなことが起きるのかについてとても分かりやすく書かれておりお薦め書籍です。


所有感と体験的自己帰属感

私のnoteでも何度か「写真は誰のものか ~私の写真という認識~」というテーマで、自分が撮影した写真だと思うための関与の方法について書いてきました。

カメラを買ったりすればモノとして所有することはできます。誰のカメラかと聞かれれば「私のカメラ」と答えるはずです。これはモノを所有している認識がお金を払うという行為によって作られたからです。

一方で、そのカメラで撮影した写真に対して「誰が撮影した写真か」と聞かれれば「私が撮影しました」と答えるかもしれませんが、「素晴らしい色の写真ですね」と聞かれたら、「この良いカメラのお陰です」と言いたくなる人も多いのではないでしょうか。

その時に実は、ホワイトバランスを変更していたり、カラーモードをカスタマイズしていたとしたら「私の作品です」と言いたくなるはずです。

この微妙な認識の差が「体験的自己帰属感」です。動機や行為によって自己関与の認識が変化し、発言や次の行動へ影響を与えるものになっています。

またその手段としての、作画意識の作り方や機器操作のためのユーザーインターフェイスを工夫することで様々な体験的自己帰属感を生み出すことができると考えています。


体験的自己帰属感はギフトになる

本当の話か都市伝説かわかりませんが、昔ホットケーキミックスを開発して売り出した時、水を加えるだけで作れる商品を出したところちっとも売れなかったのに、卵を牛乳を加えることで作る商品に変えたところ売れるようになった。という話を聞いたことがあります。

真偽は別としてこの話のポイントは、ユーザーは子供に与えたかったのはホットケーキではなく愛情だったということです。ホットケーキを作るために掛けた「手間」が愛情の大きさとして感じられたわけです。

単純な達成感や自己満足ではなく、相手のためにしてあげられること(=ギフト)という視点でも体験的自己帰属感は重要だと言えます。

もちろん手作り弁当じゃなければ子供に愛情が伝わらないなどと言いたいわけでは無く、適切な体験的自己帰属感をデザインすることでみんながハッピーになれるようにしていきたいのです。

昔、カレーか何かの鍋に「あいじょー!」って声を掛けるコマーシャルがありましたが、もしかしたらそんな体験設計でも良いのかもしれません。


道具が他者になる

自分で道具を使って仕事を達成するだけではなく、他の人に仕事を依頼する場合があります。もしこの時に部下が自分と同じ考えを持ち自分が期待するように動いてくれる道具のような存在だと期待しているならば、結果として仕事を失敗するだけでなく人間関係にも多くの問題を生み出します。

通常は道具と仕事相手は明確に分けて対応できますが、AIやロボットの発達によって道具が自律的な他者になる中間的な存在になりつつあります。つまり最終的な仕事(目的)を達成するために道具が自分の予測に反して動くということが増えてくるということでもあります。

その場合には適切な距離をデザインすることで相手に任せることができるようになるというのは、自己帰属感を逆に応用したデザインです。適切な距離とは人間主体でありながら、人間はより上位の意思決定や命令に関与するということになります。

一つの例として状況表示のためのダッシュボードというのがあります。機器や社会から発せられるデータを個々のデータとしてユーザーに提示するのではなく大局的な情報や特定の注目ポイントに絞って提示することで、ユーザーは個々のデータから適切な距離を置いて利用できるようになるのです。

他者との関係には対立的な関係もあれば、相棒やパートナーと呼べるような関係、弟子(生徒)や師匠(教師)、コンシェルジュやエキスパートといった多くのメタファーで表せる関係があるはずです。これからのデザインは道具のコントロールとユーザーインターフェイス、さらに自己帰属感と満足感を考えながら適切な距離感を作る体験をデザインしていくことになりそうです。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?