魔法と日常

私のマジックは基本的に『日常系』と言われています
それは私の作品テーマが
「日常の出来事をマジックで表現する」
「日常のなかに魔法があったなら・・・」
「魔法の世界の日常を見せる」
「日常のドラマにマジックを絡める」
などがほとんどだからです

普通マジックというと非日常を表現する場合が多いのですが
私はあえて日常にこだわっている部分があります

そもそもなぜこのようなスタイルになったのか?

それは『マジック』という用語に由来します

昔から不思議でした
なぜ英語ではファンタジーでの魔法と、手品の意味のマジックが同じ単語なのだろう?と。

もちろん、これは文化的なものあるかもしれません
日本では兄と弟は区別していますが
英語ではブラザーの1つでしかありません
私はそれを知ったとき「ややっこしくないのだろうか?」と思ったものですが
日本語でも
血縁上の祖父と年配者の男性を同じ「おじいちゃん」と呼んでいます
中国語ではこれは別の単語だそうです
つまり、文化で「区別する必要がない」と思われたのでしょう

そもそも欧米ではあまり現実とファンタジーを区別していないように思います
例えば欧米では未だに神を信じている節があります
キリスト教などの宗教は日本に比べてかなり大きな信仰の対象となっているでしょう
しかし、実際欧米人が本当に空の上に超常現象を起こせる人間に似た姿の生き物が存在しているとは思っていないでしょう
欧米人にとって「神」とは森羅万象の法則の擬人化であるように思います
例えば良い行いをすると神様は幸せを与えてくれ、悪い行いをすると罰を与えるとされています
しかし、神が存在していなくても良い行いをしていてば人間関係がうまくいき、快適な生活が送れることでしょう。逆に行いが悪ければ神が罰を与えるまでもなく、不都合な生活環境になっていきます
つまりこうした世界全体をひっくるめた因果関係や法則、さらには道徳、倫理の集合概念を擬人化したものが「神」であり
神が存在していようがしていなかろうが、法則自体は確実に存在するのだから
そういったものの心の拠り所にする行為が
「神を信じる」という表現になっているのだと思うのです

話を元に戻します
では「マジック」はどうでしょうか?
マジックはトリックがあります
しかしトリックの存在が必要なのはそれを演じるマジシャンだけです
観客にとってはトリックがあろうがなかろうが関係ないのです

極端なことを言えば
「縦ジマのハンカチを横ジマにするマジック」だって
我々が勝手に種がわかったと思い込んでいるだけで
もしかしたら本当に魔法の力で模様が変わっているかもしれないのです
それが「確実にトリックだ」ということは言い切ることができません
もしかしたら本当に魔法である可能性を観客は否定できないのです
ですからそのような「魔法のようなことを見て楽しむ娯楽」を「マジック」ということに抵抗ないのかもしれません

この「現実でも魔法でも、違いがない」という感覚
さらにもう一歩考えることができます
「もしも、本当に「魔法」というものがあったとして
それは「科学」と違うものなのだろうか?」
という点です

我々が科学的に知識として知っているものでも
知らなければ魔法に見えるもの事はたくさんあります
テレビ、電話、エアコン、コンロ、水道、飛行機、船
いずれも現象自体は魔法のようなものです
我々はその理屈が何となくわかるというだけにすぎません
ではファンタジーにおける魔法だって、それに理由がついてしまえば、それは科学になるでしょう
つまり魔法現象と科学現象の区別なんて
知っているか知らないかのボーダーラインなだけで
本質的には同じものであるかもしれないのです

「魔法と科学が知っているかどうかで区別される」
というのはまさにマジックの考え方です
つまり
「我々の日常は魔法世界と地続きなのではないか?」
とも言えます
そしてそれが
私のスタイルの根底にある考えなのです


科学と魔法の区別がない
現実世界と魔法世界の区別がない

これは嘘(作り事)と本当(事実)の区別がないことに繋がります

私は基本的にハッピーエンドになる話を演じることが多くあります
やっぱり全体的にはウケが良いものですからね

ハッピーエンドは
ぶっちゃけどこか嘘臭くもあるのですが
私は嘘と本当の区別をつけていません
現実的には起こりにくくても、起こらないものではないからです

マジックはその奇跡的な可能性をピックアップして表現するものだと考えています
ですから私はマジックをありえないものと表現するのではなく
起こりにくい奇跡の1つとして表現するのです

私のマジックにはメッセージ性を含んだものが多くあります
これはかなり前向きの結果となっていて
ある意味かなり厳しい提案でもあります

実際は努力をしても報われないことの方が多いし
正しいことをしても正しい結果にならないことが多いものです

でも、それは努力や正しさを否定することにはなりません
なぜなら
努力や正しさの先にこそ理想的な奇跡があるからです

もちろん悪いことをしても努力をしなくても良い結果になることもあります
でも、人間は因果なもので、そういった先に得たものにはなかなか満足を得られません
人は納得した結果でなければ結局満足はしないのです

ですから奇跡を表現したいなら
正しさを表現する以外にありません
前向きすぎたり
絵空事であったり
理想論過ぎたりしても
それしかないのです

今は苦しくても努力をしよう
報われなくても頑張ろう
失敗するかもしれないけど前向きに進もう
優しく、誠実に、実直に、生きよう

どれも、楽なことではありません
結果として報われないことの方が多いことは知っています

だからこそ
マジックの世界では
成功させよう
報われよう
幸せな結末にしよう
そう考え、演じています
(報われない結末は、わざわざフィクションで見せなくても現実を見れば山ほど転がっていますからw)


世の中にはハッピーエンドが苦手な人もいることは知っています
正直私自身がそのタイプです
ハッピーエンドはとても嘘臭く感じます
そしてメッセージ性のある作品はかなり押し付けがましく感じます

ハッピーエンドは言い換えれば
「ハッピーになれないのは努力不足だ」
と言い放っているようなものなのです

厳しい提案なのです

それは聞く人にとってはかなり耳が痛いものです

私はそれがわかった上でハッピーエンドを作っています

ハッピーエンドは
前向きな人が見れば、勇気をもらえるかもしれません
自分を奮い立たせるきっかけになるかもしれません

でも、別に私はそれを期待してはいません
現実はマジックほど都合良くいかないことは当然わかっています

メッセージ性の高いものを演じてはいますが
別にメッセージにしたがう必要もありません
面倒ですからw

そもそも
私はハッピーエンドを必ずしも素晴らしいものとは考えていません

ぶっちゃけ
ハッピーエンドはそこで物語が終わるからこそのハッピーエンドです
困難の末に結ばれたカップルだって
その後、喧嘩別れをするかもしれません
一時成功を迎えることと、成功が永遠に続くことはイコールではありません
ハッピーエンドは、要するにハッピーになった瞬間の切り取りです
実際的には一時的な出来事でしかないのです

厳しい思いをし、努力して、やっと向かえたハッピーエンドが一時的
なんともコスパが悪いものです

それでも私がハッピーエンドを描くのは
フィクションでハッピーエンドを体感するのが最も楽にハッピーエンドを体感する手段だからです

たぶん人は自分が体験しなくても
報われた人を見るのが好きなんじゃないかと思います
「努力をしたら報われる」
そういう世界であると思えているだけで
少しは心が落ち着くんじゃないかと思っています

自分でハッピーエンドに向かうのは大変です
ハイリスク・ローリターンです
ですから私はフィクションの中でハッピーエンドを示します

なるべく些細に、なるべく現実に近い形で、
なるべくあり得そうな状況を設定して
それでも現実では起こりにくいハッピーエンドを
マジックの中で起こすのです

【マジックウォンド】

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