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弱さを認める、受け入れる、そしたら私がやってきた

久しぶりにnoteを投稿する。
ここ数ヶ月忙しすぎてその余裕が全然なかった。
ずっと、追われていた。

昨日でなんとなくその“追われている”感がなくなって、
朝目覚めたら気候が秋になっていた。
あぁ、この感覚はいつぶりだろうか。
外から入ってくる風は爽やかで、心が軽い。
掃除をして、家の隅々まで私のエネルギーが行き渡った部屋。
ミルで豆を挽いて淹れるコーヒー。
心の声を、脳を通さず、ひたすらに文字にする時間。

思えばこの数ヶ月でいろんなことがあった。
嬉しかったこともあったけど、
インパクトが大きかったのは、
落ち込んだり、涙したり、悔しかったり、ムカついたりしたことだ。
その度に私は、一つ、一つ、意味づけをして、解釈をして、
腑に落としながら前に進んできた。
這いつくばりながら、という表現が正しい時もあったかもしれない。
そしてその解釈が間違っていたな、と感じて、また修正したり、
やっぱりそうかもしれないと思ったり。
とにかくそんなことの繰り返しだった。

私によくしてくれる、魔女のようなお姉さまがいる。
その人が言ってた。
「ピンポン球が左右の壁に当たりながら落ちて、最後一つの穴に入っていくように、人生も行ったり来たりしながら、一つの答えに到達するものだよ。」

その言葉通り、私は行ったり来たりした。
私の心は行ったり来たり。
いろんな壁にぶち当たりながら、それでも前に進んだ。

そしたら、見えてきた。
見たくなくても見えてきたのが、私の弱さ。
自分が嫌だなと思っていた部分が、
裸になって私の前に現れた。
何度も何度も。
認めてると思った。その弱さを私は理解していて、きちんと認められていると思っていた。
でも、それが不十分である時、またその弱さは色んな形で私の前に現れた。
そしてある時気が付くのである。
私の前に差し出された弱さは、私そのものなのだと。

ちゃんとした私、しっかり者の私、きちんとしている私、ミスのない私、人から信頼される私、物事をやり遂げられる私。
その対岸にいる、おっちょこちょいで、忘れっぽくて、テキトーで、実は全て「なんでもよくない?」と思っている私。

対岸にいる私が、本来の私だった。
私が私と思っている私は、今まで“作りあげられてきた”私だった。
その自分でいることが苦しかったり、疲れたり、違和感だな、と思うこともあったのに、それが私であると、何年もそう信じて生きてきたんだな。

あぁ、置いてけぼりにしてごめんよ。
私は今、そっちの私と手を繋ぎたいよ。
まだ、それが主にはならないだろうけど、まずは手を繋いで一緒に歩くところから。
まだまだ長い人生。そのうち、一つになって溶け合おう。


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