いつまでもいつまでも

 いつまでも当たり前に在り続けてくれる安心感ってあると思うんですよ。
 たとえどれだけ変化してしまって最初とは違うものになっていたとしても。
 その変化に切なさを覚えたとしても、存在しているということに安堵する。
 そんなことがよくよく考えてみると日常の中にもありますし、エンターテイメントの中にもありますよね。
 日常的な話をするといつもと同じ生活の中でふと普段との違いを覚えるとき。
 例えば別離した人の面影をそこに見てしまったり。
 幼少期を思い出したり。
 今の自分と昔の自分を比べてしまったり。
 当たり前だからこそ、そこに見えてしまうものやわかってしまうことがあって切なくなる。
 ふとしたときになんか悲しい。
 そういうときがあったりします。
 アイドルが所属するグループを辞めるとき、引退するとき。
 グループそのものが解散するとき。
 当たり前にそこに在ってくれたものが永遠ではないとわかっていたはずなのに。
 そんなことは当たり前だって知っているのにただただ切なくなる。
 物理的に、なんだったら精神的にも遠く遠く、絶対にファンとアイドルというかたちが変わることはなく、それは交わらない糸だったとしても、共に人生を歩んできてはいたんですよ。
 だって日常の中には好きが溢れていて、それは1日かも1年かもひょっとしたら10年かもしれないけれど、ずっと一緒には居てくれた。
 好きになる、応援するってそういうことだったりします。
 それがファンなんですよねぇ。
 デビューした際に「この子たちの10年後が見たい」と長年、アイドル好きをやってきてはじめて思ってファンになったSexy Zoneの10年後を見届けることが出来て。
 2022年現在、その10年後の先を共に生きていて。
 そして、その一方ではグループを卒業してソロ活動していく子や、引退した子をハロプロにおいて見続けています。
 金澤ローズクォーツ朋子が引退したことはとてもショックですし、まなかんやちぃといったカントリー・ガールズ組の卒業ラッシュにも思うところがありとてもセンチな気分ですね。
 カンガルに思いをはせるとただただセンチにならざるを得ずつらいのですが。
 ただ、アイドルやってくれた子には幸せになってほしい。
 本当にそれは思います。
 アイドルを辞めても、芸能活動を辞めても、どこかで幸せに生活していてほしい。
 不本意なかたちではありましたが亀井絵里の結婚を知ることが出来たときに改めて強く思いました。
 おそらくはもう自分が見聞きすることも知ることもないでしょうが、これからも絵里はどこかで亀井絵里の人生を歩んでいくのでしょう。
 それはきっとみんな同じなんです。
 一生、忘れられない出会いを何度も何度も繰り返して、忘れることなんて出来ない別れを経験して、そんなふうに思ったのにいつしか思い出すことも少なくなり、けれどふとしたときに思い出す。
 それは切なさや悲しみが同居していたとしても、幸せな思いであってほしい。
 そう願います。 
 

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