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なぜ「積極的安楽死」を望むようになったのか

 私が、「物理的に自殺をすることが出来ない人への 選択肢 としての安楽死」を望むようになったのは、とある出来事があったからです。
 その時に様々な事を悩み、考え、断念し、悲観し、次第に無気力になり命から目を背けるようになっていきました。
 今では区切りもつき、立ち直るきっかけもあって、この出来事の諸問題についてnoteを書いたり、Twitterでも活動していますが、この事から目を背けたらまた無気力な人間に戻るのではないかなと思いながら活動しています。

 20年ぐらい前に私の父(当時50代)は交通事故に遭いました。
 その時に首の脊髄を痛めてしまい(頸椎損傷)、首から下の感覚が無く、自力で動かすことが出来なくなり、数日後には状態が悪化し、人工呼吸器が長期的に必要だと説明され、気管切開(以降は気切)の手術の同意書にサインしました。
 その結果、呼気が声帯を通らなくなり発声することも出来なくなりました。
 また、痰が肺に溜まってしまうので、毎日、定期的に喉にある気切のカフ付きチューブに吸引カテーテルを挿入し、痰を吸引する必要がありました。これは異物が気管や気管支の中を動き回るため、父はえづき、顔をしかめ、呼吸も苦しい、また、私たちにも見ているだけで苦しい処置でした。
 胃ろう(胃に穴をあけて管を固定し、流動食を流す役割)の手術同意書も書いていると思いますが、どのタイミングだったのか思い出せません。

 父は昔から「太く短く生きたい」と言っていて、年越しそばをうどんにするような人でした。
 それなのに意識はあれど、自分の気持ちすら上手く伝えられない。食事は胃ろうから流し込まれ、排せつはおむつ。時間になると自分の意思とは関係なく着替えやシーツ交換、清拭(体を綺麗に拭く)、関節が固まるのを防ぐためのストレッチなどをされ、褥瘡予防のために体の位置や向きを変えられる。
 そして、毎日、定期的に行われる痰の吸引。
 こんな状態で生き続けたいとは思わなかったでしょう。
 そんな父がどんな運命のいたずらなのか、こんな人生を強要されてしまいました。

 私(当時20代)には、様々な悩みや不安が生まれました。

 一つは入所施設。
 私を取り巻く環境では在宅介護を選べなかったので施設入所で話を進めていました。
 在宅介護をする為には、私が仕事を辞めて介護に専念し、訪問看護師(痰の吸引は医療行為になるので介護士では出来ない)に手伝ってもらい、痰の吸引の為に24時間体制を作り上げる事が必要だったのですが、金銭的にも、精神的にも無理があります。
 また、人工呼吸器管理が出来る施設は少なく、施設探しも難航しました。

 一つはお金。
 少々特殊な事故だったので、保険金の総額が見えませんでした。
 また、入所施設の目途も立っていないので、支出額も見えません。
 さらに、父があと何年生き続けるのかも見当がつきません。

 一つは会話。
 父は周りの人間が言っている事は理解できますが、声を出せません。
 なので私たちは口話(口の動きで言っている内容を読み取る)での会話でしたが、口話の経験などなく、父は伝えたい事が理解されずに苛立ち、私たちは理解できないことに苦しみました。
 その過程で、「生きたい」と「死にたい」は口の動きが同じなので、この動きだけはしてくれるなと思ったこともありました。

 一つは父の命と人生。
 私は父が亡くなった今ですら、生を強要させてしまったと思っています。
 父は自殺することも出来ず、「安楽死」が出来ない以上、誰も父を殺すことも出来ない。
 私としては殺人罪を犯してまで父を殺せなかったから。
 父が集中治療室に入っているときに、この環境下で父を即死させる手段を具体的に考えましたが出来ませんでした。
 仮に父の肉親が私のみだったのならば、理性のストッパーが弱くなり、在宅介護に誘導して上記とは違う方法で殺したかもしれません。

 ならば一つでも父が自力で出来る事を増やそうといろいろ考えました。
 手が動かないので、当たり前ですがナースコールすら押せない。これはタッチセンサーと、ナースコール子機を各メーカー必要に応じて取り寄せ、組み合わせ、父が首を横に振ると触れて作動するようにしました。
 (今は製品として販売されています)
 また、会話もパソコンを使い、目や頭の動きをセンサーで読み取りマウスポインターを動かし、タッチセンサーを口で咥え、舌で触れてクリック、そうして入力した文字を読み上げソフトで音にすることも考えました。
 (今はもっと使いやすいものがあります)
 しかし父にはパソコン自体が受け入れてもらえず、ならばパソコンに慣れる事からと思い、テレビチューナーを増設したノートパソコンを寝たきりでも見える位置になるようなスタンドに取り付け、テレビを見れる様にしました。
 (当時の医療、介護スタッフの方々にはこんな扱いづらい機器を受け入れ、使用して頂きありがとうございました。今も感謝しています。)

 他にも個人的な悩みも、家庭の悩みも増えましたが、手続きや事故の事後処理などやらなければならない事も多くあり、日中は目先の事を処理し、夕方には見舞いに行く日々が続きました。

 病院の制度的な問題で、3か月ごとにA病院→B病院→A病院のように転院を繰り返し、なんとか見つかった施設へ入所しました。
 それぞれの病院の責任もあると思うのですが、移動は救急車で医師が同乗するという厳重な管理でした。

 施設に入所して数か月後に、父は敗血症(感染症)で病院へ救急搬送されました。こちらの病院では私が自作したタッチセンサー式のナースコール子機は使わせてもらえませんでした。
 私もずっと付き添える状況ではなかったので週1回程度の見舞いに行く程度の対応をしました。
 父にとっては自分の意思を伝えるのが難しい環境になってしまい、この入院期間中に意思を伝える努力を放棄したようで、見舞いに行っても目線が合うことはなくなりました。

 私としては、自分の仕事や家の事を放棄してでも父に寄り添っていたら、このようにはならなかっただろうと思います。
 しかし、あまり家庭に関与せず、休みには自分の趣味を優先していた父にそこまでしなければならないのか?
 でも、父は中途障がいになってしまった母を見捨てることなかった。そして母が自殺未遂した時は幼い私を諭し、母を支えたじゃないか。
 でも、事故前には母に辛辣な言葉を言い、母は離婚まで考えるような状態まで追い込んだじゃないか。
 しかし、一人の男としては仕事をがんばり、結果を出していた父を尊敬もしている・・・
 こんな葛藤もありましたが、ただ単に私の心が父に向き合うことに疲れてしまっていただけかもしれません。
 結果的には私は寄り添わなかった。そして、父が意思を伝える事をやめたという事実が過去の出来事として残っただけなので。

 この病院に入る前の施設とはいろいろと話をしましたが戻れないと判断し、違う施設を探し、見つかった施設は医師が運営している介護施設で、看取りにしっかり取り組まれていたので、自宅からはかなりの距離があったのですがお願いしました。

 こちらの施設に移ってからは特に変わらぬ日々が続いていきます。
 見舞いも移動するだけで、それなりの金額が必要だったりもしたので。月1回と必要に応じて行っていました。 
 寄り添って介護をしていない私から、パソコンで色々な事が出来るという提案やサポートを父に出来るわけもなく、ただのテレビとして動き、故障してしまった時には、スタッフの方々の手間を優先し、普通の液晶テレビになりました。

 父にとっての生き地獄のような日々も変わらずに続いていました。
 見舞いに行っても、目線が合うことはほとんどありませんでした。
 私が父から目を背けたいと思ったりもしてましたが、父にも思うことはあったのではないかと思います。

 数年が経ったある時、父の容態が急変しました。
 医師の診断は小脳に血栓が飛んだことによる脳梗塞だろうとの事でした。
 そして、意識は戻ることはないだろうとも言われました。

 私は感情では悲しみましたが、意識では父がこれまでの地獄のような日々を認識出来なくなってよかったと安心もしました。
 なぜなら、私は父に生きている実感も、希望も、楽しみも何も提供できなかったからです。
 以前から父と同じ頸椎損傷で人工呼吸器をつけている方でブログを書かれていらっしゃる方を知っていました。
 先天性の重度障害の方を支えて生活していらっしゃる家族も知っていました。
 他にも障害や難病でも前向きに人生を歩んでいらっしゃる方も知っていました。
 この方たちにほぼ共通するのが献身的にサポートする方々がいらっしゃる事です。
 私にはそんな方々に比べると、家庭事情はあったものの何も出来なかった。
 父が少しでもたのしめるかと思いカードマジックの練習をしたりもしましたが、なかなかうまく出来ず、また絶望の中にいる父に見せる事を言い出せませんでした。
 介護を他者に任せた事で、父に向き合うことに恐怖心に似た感情すら持っていました。

 そして、この時の私には「延命治療」と「治療」の境界を明確に決めれていませんでした。
 この脳梗塞の時には、たしか心停止したと記憶していますが、この時に行われたであろう心肺蘇生が当たり前の処置と思っており、「延命治療」とは思っていませんでした。
 これは医師によっても判断が分かれる所かもしれませんが、入所施設の医師から「心肺蘇生をするか?」という疑問を投げかけられることはなかったので、医師も「治療」や「当然の処置」の分野に入っていたと思います。
 現在の法の解釈では「しなければならない事」に入っているのかもしれませんが。

 そして父は10年近くの年月の中で2回ほど心停止しましたが、蘇生し、最終的に消化器官の病気を治療しない事で亡くなりました。
 亡くなるまでの間も、月1回の見舞いを続けていましたが、徐々に「安楽死」が法的に認められていない事を理由の一つとして父の命にまつわる問題から目を背けるようになりました。
 だからといって、私の人生を豊かにしようとも思えず、時には仕事の忙しさに身を任せ、時には無気力に中身のない日々を過ごしました。

 私はこのような経験を経て、「安楽死」の法整備は必要なのではないかと考えるようになりました。

 安楽死が認められていて、選択できたとしたなら、父は事故後10年以上という時間を生きなかったでしょう。
 私としては脳梗塞を発症した後に、私以外の家族と申請する前提で話をしたと思います。
 もしくは父の強い要望があれば頸椎損傷後か、意思を伝える努力をしなくなった時に申請したかもしれません。
 安楽死が法で認められてない以上、私も父も「生きていたいのか?」という話を出来なかったので私は父の気持ちを推察することしか出来ませんでした。
 父が言った言葉の中で「もう(見舞いに)来なくていい」はありました。
 これが「今の現状を見られたくない」なのか、「家族に迷惑をかけたくない」なのか、それとも他の理由なのかは聞いていません。
 父が言ったことを分からないふりをしたので。
 そして、父も理解させようと繰り返さなかったので。

 父が「生きたい」と言ってくれればパソコンを特殊な方法で使う提案も出来たでしょうし、希望を言ってくれれば、自分の人生の1年ぐらいならば平気でその事だけに費やしたでしょう。もしかするともっと長い年月でも費やせるように資金計画などを練ったと思います。

 父が「死にたい」と言ったならば、積極的に動いたと思います。私に致死薬物の点滴のコックを操作しろという状況でも、迷わず行ったでしょう。私は合法の上でなら、父の死を背負う覚悟はとうの昔に出来ていましたので。

 事実として残ったのは、本人の意思に反してでも出来る事を勧める事が出来なかった弱い私がいた事と、生き地獄のような時間を過ごした父、その後に心臓は動いているが人生の歩みが止まってしまった父と、その父から目を背けてしまった私でした。 

 「安楽死」という選択肢があったなら、私はここまでの後悔の念や罪悪感を引きずっていないと思います。
  ・父に生きる希望を見出せるように動けなかった。
  ・生を強要するだけで、殺すことが出来なかった。
  ・心肺蘇生をしないという提案が出来なかった。
 この3つが私が背負ってしまった咎だと思います。
 おそらく、この気持ちから解放されることなく、私が死ぬまで抱え続けるのだと思います。
 

 私は「積極的安楽死」の合法化を望んでいます。
 しかし、安楽死の要件を満たしたすべての案件で適用すべきだなどとは思いません。
 そして、本人の意思が最大限尊重されるべきです。
 また、安楽死を選ぶという選択肢と共に、安楽死を選ばない、また選べないという考えも尊重すべきです。
 それは、それぞれの人とその家族、近親者の考え方で変わっていいはずです。皆がまったく同じ考えを持つことなどないのですから。
 そして、「死」という選択肢があることによって前向きに「生」に取り組むことも出来ると思っています。

 お願い

 私の事を実際に知っている人は、文中の出来事で私の実名が思い浮かぶと思います。
 ですが、この活動は私個人で行っている事であり、私の近親者はこの活動を快く思わない人もいると思います。
 それゆえに実名では行動できません。
 なので、「これって〇〇さんの事だよね」と心の中で思うだけで留めておいて頂きたいです。
 勝手なお願いになりますが、何卒よろしくお願いします。

 あと、私がこのような活動をしようと思うきっかけになった、自作の歌詞を置いておきます。
 きっかけはお遊びだったのですが、歌詞を書こうと思うことがあり、テーマを探した際に、私の心の中に強く後悔の念があったことを明確にしてくれたものです。
 

 この歌詞を友人に見せた際に「命の価値に差はないから納得しがたい」と言われましたが、表現したかったのは「父の命は重く感じ、私の命は軽く思えた」という実感です。
 代わりになるいい言葉が思いつかないまま今に至るので、まぁいいかと歌詞の供養のつもりで載せました。