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「感動」とはなんであるか考える。その2

ちょっと時間が経ってしまいましたが「TAR」を観たのです。
実は多くの人が語っているように難解にも感じて、自分の中の感想の整理がつかず、さてどうしたものかと。実はもう一度見にいこうと思っていたけど終わってしまって。

このムカムカする感じはなんなのか?
けれども面白いと感じる自分がいる。


結構色々とレビューや感想、解説、監督インタビューなどを読んだのだけれども、僕自身が受けたこの感情のモヤモヤにちゃんと説明ができたものは見当たりませんでした。なのでここからは極めて私見として、「なんの感情に訴えたのか?」を探っていこうと思います。

指揮者・作曲家の映画だけれども、音楽はそんなに聴かせてくれない。

「TARを音楽映画として観にいくと裏切られる」というような文章をどこかで読みました。ほんとその通りで、ちゃんと音楽を聴かせてくれるシーンは皆無と言っても良いかもしれません。もちろん、全然演奏しないわけではないです。でも、通常音楽を聴いたと感じられる小節ほど聴かせてはくれません。
このいっこ前に書いた「ワンピースのuta」のオープニングとは対極だと思います。もう少し観客が「ここだけ観てもゾクゾクする」という感覚を持つ長さにすることは間違いなく可能だったと思います。2分くらいあれば十分じゃないかなあ。
指揮者というテクニカルな部分の説明の厚みを持たせることにその2分があっても全然邪魔にならないし、おそらくそれでもこの映画に対する「わかりやすい満足感」を生み出すことは可能だったのだと思います。
しかし、あえてそれをやらない。観客はものすごく消化不良というか、どうしていいかわからない感じです。

ターを実在の人物だと思った人がいたそう。

ケイトブランシェットの圧巻の演技と傍に出てくる実在の人物との言葉などのせいで、ターを実在の人物と思った人が出たというエピソードを読みました。確かに映画を見ていると「ケイトブランシェット」というよりも「リディア・ター」を見ている気分になります。演技力はそりゃあもちろんなんですが、これはインタビューやスマホの映像という「映画以外のメディア」の使い方が巧みだからだと思います。僕らが日常的に触れる「画面の向こうの世界」としてリディア・ターを存在させることで、「画面の向こうにリディア・ターがいる現実」を錯覚させているのだと思います。これは冒頭の盗撮が非常に効いている。「覗き見」するシチュエーションを作ることが「演技を撮影している映画」ということを忘れさせるのだと思います。

さてところでそもそも映画に僕たちは何を求めるのか?

この映画を観て単純に感じたことです。
もちろん、僕にとっても映画は「娯楽」です。現代のいくらでもコンテンツを消費できてよそ見もたくさんできてながらでもよくてという状況の中で自分の人生の中の158分をシングルタスクに捧げるわけですから。
そこにやはり、「満足」や「爽快感」、「感動」がなければいけないというのは当然のことだと思います。「スパイダーマン ノー・ウエイホーム」とかはその典型、やっぱ嬉しいし痺れるし、サービス精神旺盛なお約束的で望んだ通り以上のわかり易さと結末が待っていて安心して楽しめましたし「満足」も「感動」もしました。
しかし「TAR」にはそんなところが何一つない。でも158分が勿体なかったかというとそんなことも全然なくて、でも全然サービスもしてくれないし、何が面白いのか?ってわかんないままだし。という感じでした。

おそらく「TAR」には「ネタバレ」とかない。
「伏線」も「伏線回収」もない。

もちろんストーリーを全部書いてしまうと「ネタバレ」と言われるのだとは思います。しかし、それを全て書いてみたところで「それで?」という答えしかでないのではないかと。
また前半でのエピソードの積み重ねが後半に効いてくるとか、伏線を張り巡らせてあるとかいう「娯楽としてのわかる満足」を設計した映画でもないと感じています。

「地続き」のリアリティ。

「TAR」の持つ気持ち悪さやリアリティは、実は各々の実生活、人生と地続きであるように見える物語構成にあるのではないかと思います。

僕らは娯楽としての映画や物語を見るときに「ストーリー」としての全体像として見ることを始めます。映画の中で流れる2時間以上の時間の中で取り上げられた「シーン」の重要性を読み取り、それが「原因」となったり「伏線」となったりして、逆に「取り上げられなかった(撮影されなかった)」シーンの裏にその登場人物の生活があることはほとんど想像しません。(「behind the scenes」と言われると撮影後のその役者自身と撮影スタッフの歓談や、グリーンバックの特撮シーンを思い浮かべます。)

しかし、自らの実生活を振り返ってみると、何が「起」であり「承」であるかなど意識せずに生きているわけですし、「転」を望まなかったり、死ぬとき以外の「結」が想像できないことも当たり前です。記憶に残るものも、思い出すことも、感情の種類やその大小に関わらずバラバラに起こるわけですし、自分が主人公である自分の人生において「伏線」などというものも存在しません。

考えてみれば「物語」の中でのみ機能するお約束が「起承転結」という「展開」であり「伏線」などというメタ視点なのであるともいえます。
そうしてその「物語」を体験するために我々は映画を観る。
しかし「TAR」の物語構成は、フィクションとしての「物語」が通常は運んでくれる「起」も「承」も「転」も当てはまらない、また逆にどれにでも当てはまるという現実生活に近い状況でじわじわと進行するため、不安定で先の見えない気味の悪さがあるのだと思います。

一人の大天才が、その傲慢さから奈落の底に落ちる。

それだけをプロットとしたならば、キャンセルカルチャー(大嫌いな言葉ではあります)や成功者に対するシャーデンフロイデという現代の蔓延した社会的な病理を考えれば「物語としてスカッとする」ものをつくることは全然可能だと思いますし、そうであれば「一般的にウケる」映画になることもできた(アメリカでも興行成功できた)のではないかと思います。
しかし「TAR」はそうできていない。「大天才」「カリスマ」という、通常であれば自分と切り離して「物語の登場人物」としてしか観ないはずのものを、まったく自分と似ていない、似せることもできないはずの天井人を、「物語」としての全体像が見えない「不安定な人間」として描くことで、観ているものに自分に近いもの、というよりは自分の人生の中で何かしら持っている「結末の見えない不安」を呼び起こさせ、自己同一視してしまうから、ターの終盤の転落にも不安定な感情しか描けず、モヤモヤしたまま終わった印象が残るのではないかと思います。

「わかる」を放棄したこと。

考えてみれば、実生活、人生の中において「わかる」ことはそんなに多いのかと思います。僕自身も後々考えてみれば不条理な選択をすることも度々だし、次の一手がわからないことばかりです。皆わからないから自己啓発本を買ったりセミナーやオンラインサロン参加したり、占い師のところに行ったりするのだと思います。

そういう我々の「わからない」不安感とターの成功者に見える「カリスマ」の「わからない」不安定さを、ケイトブランシェットの圧倒的な演技力とリアリティを最大限に引き出した演出によって地続きにしたから、なぜか「物語」として自らの現実とは別の世界として引き剥がしたりできなくなって、自分自身の感情としてゾワゾワしたものを感じるのだと思います。
最初に書きましたが、きっと「映画的な演出」としてしっかり音楽シーンとか見せてくれたり、映画音楽が感情に同調していたりしたらもう少し安心して「物語」っとして切り離して楽しめたんだと思います。しかし全てが断片でシーケンスの強弱がないのは実生活、人生の中での体験と記憶に非常に近いわけで、その積み重ねによって「わからない」「先が見えない」「終わりが見えない」不安感が自分自身の人生の中での不安感に直結し「わからない映画」でありつつ「自分の心に刺しこんでくる映画」になっているんだと思います。

最後にーラストシーン。

これが救いなのか?アジアへの偏見ではないか?クラシックからの転落先なのか?というのも見かけました。
本当に転落であるならば、あそこまでアジア(ベトナム?)の生活シーンをダイジェストに語る必要もなく、コンサートシーンをいきなりやっても良かったはずです。けれどもわざわざのダイジェスト。どちらかというと滝のシーンに僕は救いを感じました。けれどもそれも違う気もします。

ただ単に、「TARの人生は続いている」
成功でも失敗でもなく、「結」もなく、「続いている」というだけなんだろうなと。

「TAR」は難解なのではなく、人生でわかっていることなんて少ないってことを、そのまま見せただけなのではないかと。
そうしてそのまま見せられちゃったもんだから、本当はわかんないってわかっているけど出来るだけ見ないようにしている自分の深い部分もそのまま見せられちゃったもんだから、気持ちが悪いんです。たぶん。






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