最後の酒(創作怪談)

「いつから狂い始めたんだ・・・」
つい愚痴がこぼれる。
歯車なんて何処か1か所がおかしくなっただけで全ての動きが狂ってくる。
そして1つの歯車が動きを停止するという事は即座に全てが動かなくなるという事だ。
そんな事にもずっと気付けないで生きてきた。
別に他人より幸せな人生だとは思ってはいなかったが、それでもそんな日常がずっと続いていくんだと当たり前のように思っていた。
時間をかけて作り上げた細やかな幸せも崩れる時にはほんの一瞬。
所詮、人生なんて歯車と同じじゃないか、と今更にして思えてくる。
最初はほんの些細なミスだった。
しかしそのミスを隠す為についた嘘が小さなほころびを大きな亀裂へと変えるのにそれ程時間は要しなかった。
まるで真っ白な紙に火を点けたかの様に炎はあっという間に広がっていき気付いた時にはもう誰にも止められなくなっていた。
そして1つのモノを失ってしまうとそれに連鎖する様に大切なモノが次から次へと消えていってしまうのだとまざまざと思い知らされた。
もう手の届かない遥かかなたへと・・・。
仕事、家族、友達、信用、夢、そして生きる希望まで。
気付いた時には私の周りにはもう何も残っていなかった。
酒に溺れギャンブルにのめり込み、生きている意味すら分からなくなった時、私はある事に気付いた。
こんなくだらない人生なんて私自身の手で終わらせられてしまえばいいだけじゃないか!と。
そう決心してからの私はこの世に私自身が存在した痕跡を出来るだけ残さないように暮らした。
いや、これまで生きてきた痕跡を消す事だけに奔走した。
部屋を解約してネカフェで暮らし始め、車を売り払い携帯も解約した。
そして残っていた貯金で豪遊し所持金が1万円を切った時、この世への未練とともに私の生きてきた痕跡もきれいに消す事が出来たに違いないと確信した。
社会から切り離され孤独になれたことでようやく踏ん切りがついた。
自らの人生を終わらせる時が来たのだ。
自分でも不思議なくらい怖さは感じなかった。
いや、どちらかと言えば「ようやく楽になれる」という高揚感すら感じていたのだと思う。
方法はもう決めてある。
入水による自死。
泥酔した状態で川に飛び込めばそのまま溺死して海へと流れていく。
そして沖の方まで流されてしまえばきっと死体は見つからないだろうし、さっさと魚たちが骨だけにしてくれる。
骨だけになった私はそのまま海の底に沈んでいって永遠の眠りに就ける。
死んだ後で身元を特定され、あれやこれやと過去を探られるなんてまっぴら御免だった。
その為に身元が分かる物は一切持ち歩かないようにしているし生きてきた痕跡すら消し去ってきたのだから。
私は海に向かって川沿いの道を歩き出した。
海に出る少し手前の川沿いにはさびれた古い飲み屋街があるそうだ。
そこで有り金をはたいて度数の高い酒を飲み、出来るだけ海に近い川へと身を投げる。
そうすれば泥酔し溺死した私を川の流れが勝手に沖へと運んでくれるはず。
計画は完璧だ。
きっと上手く行く筈だ!
そう思いながら私はふらふらと川沿いの道を海に向かって歩いていく。
そうやって歩き続けて20分程経った頃だろうか。
目の前に、寂れてはいるが雰囲気のある飲み屋街が現れた。
辺りはすっかり夕方から夜へと空気を変えつつある。
まさにベストなタイミングで飲み屋街に辿り着けた事は私にとって願っても無い事だった。
これならば適当な店で強めの酒を飲んでいればすぐに泥酔して夜の暗闇に乗じて誰にも気付かれる事無く眼の前の川へと身を投げ出す事が出来るだろう。
飲み屋街の中を私はゆっくりと歩き、私の終わりに相応しいお店を勘だけを頼りに見て回った。
どんな店でも良いという訳ではなかった。
人生最後の酒になるのだからせめて雰囲気のある店で過ごしたいと決めていた。
しかし私の感性に訴えかけてくるお店はどこにも見つからなかった。
最後の酒を居酒屋の賑やかな雰囲気に台無しにされるのは避けたかったが在るのは居酒屋ばかりでスナックには明かりさえ灯っていない。
「バーとは言わなくてもせめてスナックで飲む事が出来れば・・・」
そう考えていた私の目論見はあっさりと崩れ去った。
「少し戻ってコンビニで強めの酒を買って一気に飲むしかないか・・・」
そう思い肩を落として飲み屋街の中を戻ろうとした時、私の視界に「BAR」という文字が飛び込んできた。
飲み屋街の通りから垂直に細く長い道が続いておりその先には間違いなく「BAR」という看板に明かりを灯した店が見て取れた。
迷う必要など微塵もなかった。
最後の酒をBARで飲めるのなら、これ以上嬉しい事は無かった。
細い道を1分以上進み続け、ようやくBARの入り口ドアへと辿り着いた。
こじんまりとした店構えに似つかわしくない程の大きな木製のドアを引いて店内へと入った。
店内にはジャズでもブルースでもなくクラシックが流れていた。
しかも確かマーラーとかいう作曲家の作品。
個人的にはジャズが流れているBARが理想ではあったが今の気分にマーラーのクラシック音楽もまんざら悪くはなかった。
最後の夜にマーラーの独特なクラシックを聴くのもオツというものかもしれないがそれ以上に店内の独特で不思議な造りと雰囲気が流れている音楽と奇妙に調和していた。
店内には6席ほどのカウンター席がありその奥にも真っ暗な空間が延々と続いている様に感じられた。
他に客はおらずかなり年配のマスターが入って来た私に目もくれず静かにグラスを拭き続けていた。
「私が入ってきた事に気付いていないのかな?」
そう思った私はマスターへ挨拶する。
「こんばんは。初めてなんですけど座っても大丈夫ですか?」
そう声を掛けるとマスターは無言のままマスターの真正面のカウンター席に座るように手で応えてくれた。
「こんな場所にこんなBARがあったなんて聞いた事も無かったけど、この感じだとこのマスターは無口なタイプなのかもしれない。それならば最後の酒をじっくりと味わうには最適のBARなのかもしれないな」
そんな事を思いながらマスターに強い酒は何が揃ってるかを尋ねようとした刹那、マスターが静かに口を開いた。
「今夜、自ら死ぬおつもりなんですか?・・・川に飛び込んで・・・」
えっ?
その言葉を聞いた私はその場で固まったままマスターの顔をじっと見つめるしかなかった。
何故このマスターは私が今夜死のうと思ってる事を知っているんだ?
しかも、その方法まで!
死のうと思ってる事なんて誰にも話してはいないし、そもそも既にそういう他人との繋がりは完全に遮断している。
それなのに、どうして?
頭の中はパニックになっていた。
しかしそんな私にお構いなしにマスターは同じ言葉を繰り返した。
「今夜、自ら死ぬおつもりなんですか?」
その声には抗えない何かがあった。
私は無意識に「はい」と答えていた。
すると、マスターはニッコリと笑って
「そうですか。あっ、勘違いなさらないでくださいね。私は別にあなたの決断を止めようなんか考えている訳ではありません。この世には沢山の人間が生きているんですから1人や2人減ったところで大勢に影響はありません。それに生き続ける自由があるんですから死ぬ自由があっても構わないと思っています。ただ最後にこの店に寄っていただいたお客様にはいつもスペシャルなカクテルを無料で提供させてもらっているんです。強くてどんな酒よりも美味しいですよ。最後の酒としては申し分ない酒。どうですか?・・・一杯飲まれていきませんか?」
そう聞いてきた。
私はその問いかけに必死で思考を巡らせた。
この店にはそんなに大勢の自殺志願者が最後の酒を飲みに来たというのだろうか?
だとしたら、そいつらは皆が私と同じ考えであり、川に飛び込む前に最後の酒を飲む為にこの飲み屋街にやって来て偶然この店を見つけたという事なのか?
それにしても自殺志願者を前にして自殺を止めようともしないというのは普通の事なのだろうか?
いや、普通ならば思い留まらせようとして必死に説得してくるものではないのか?
何かがおかしい・・・。
そう思うと何故か店内が肌寒く背筋に冷たいものを感じたが私はそこで思考を停止した。
もう今夜死ぬ事は自分で決めているじゃないか。
だとしたら何を恐れる必要がある?
きっとマスターは数多の自殺志願者を見てきて最後に少しでも素敵な時間を過ごしてもらおうと思っているに過ぎない。
それならば感謝しながらその最高のカクテルというものを飲んでみれば良いじゃないか!
私の考えは決まった。
気が付けば無意識にマスターに向かい「それじゃ、そのカクテルをお願い出来ますか?」と満面の笑みで応えていた。
「かしこまりました・・・」
そう言うとマスターはまた黙り込んでその最高のカクテルというものを真剣な顔つきで作り始めた。
最後の最後で良い事があったのかもしれないな・・・。
私はしみじみとそんな事を考えていたが、そうしているうちにそのカクテルが完成し私の前へと静かに置かれた。
「お待たせ致しました・・・・どうぞ!」
その言葉を聞いて私はカクテルグラスを口に運ぶ。
カクテルはウイスキーベース、しかもアルコール度数はかなり高い。
フルーティな香りと豊潤な甘い香りが口の中を満たしていく。
確かにマスターの言う通り、強くてどんな酒よりも美味しいというのも頷ける絶妙なバランスだ。
ただ後味に少し違和感を感じる。
鉄分を強く感じる香りが口の中に広がった後、スーッと消えていく。
私は遠慮も無くその違和感をマスターへ伝える。
するとマスターは
鉄分ですか?それはきっと私の血が混じってるからでしょうか・・・・。
思いがけない言葉に私はつい「えっ?」と声を上げてしまう。
するとマスターは「冗談ですよ。お気になさらず・・・」
そう返してくれたがその顔には笑顔が無くとてもジョークとは思えなかった。
逆に不安が強くなった。
それを察したのかマスターは
「最後の酒を飲んでいらっしゃるんですよね?それに美味しいでしょ?それなら細かい事なんかどうでも良いんじゃありませんか?」
と言い聞かせる様に声を掛けてきた。
眼前のマスターにそう言われると、本当にその通りだ、と思ってしまうから不思議だった。
気が付けば何杯かマスター特製のカクテルをお代わりしていた。
かなり酔いが回ってしまい、そのせいか私の体はピクリとも動かせなくなっていた。
いや、これは本当に酔いによるものなのか?
これはまるで・・・金縛り・・・という奴ではないのか?
するとマスターがポツポツとゆっくりと話しだした。
「自ら命を終わらせるなんて勿体ない事です。せっかく寿命というものが生まれた時から決められているのに。あなたはきっと生きていく意味を見失ったんでしょうね?でもね・・・生きていく事に意味なんか存在してはいないんですよ。ただ最後の時まで黙々と生き続けていけばいいんです。黙々とね。それにね。あなたにもきっと大切な人が一人くらいはいるはずです。誰かの為に生きていくのも悪くないものですよ?それが愛情でも憎しみでも怨みでも生きていく為の意味として十分活用できますから。そうしているうちに今度はあなた自身が誰かの生きていく意味になっているかもしれませんよ。人間の生きていく意味なんてそんな程度のものです。この世に生を受けた誰もがそうやって無理やり生きる意味を見つけて寿命を全うしていくんです。だからあなたも死ぬなんて言わずに生きるんです。それが命を授かった者の義務であり権利なんですから」と。
私は意味が分からなくなっていた。
私の自殺に理解を示し最後の酒まで奢ってくれたのではなかったのか?
沢山の自殺志願者を見守り送り出してくれていたのではなかったのか?
それなのに、どうしてこのタイミングで自殺を思いとどまるように諭してくるのか?
しかし不思議だった。
あれだけ死にたいという思いで頭の中が一杯になっていたというのにマスターの言葉を聞いただけで涙が溢れ出してきて死にたいと思っていた自分が間違いだったと強く思い知らされた様な気持ちになった。
マスターに私は助けられた。
もう少しで最も大きな過ちを犯してしまう所だった。
そう心の中で強く感じた時
「どうですか?生きたいという気持ちが湧いてきたでしょう?」
マスターがそんな問いかけをしてくる。
そして私は自然にこんな言葉を大きな声で叫んでいた。
生きたいです!私は生きなくちゃいけないんです!
私はマスターに助けられたんですね!
だから、この命をもっと大切にして生きていきます!と。
そんな私の言葉を聞き終えたマスターは言葉で表現できない程の邪悪さに満ちた笑みを浮かべてこう返してきた。
「お礼は必要ありません。私は私の為にやっただけですから。それに必要以上に命を大切にして生きていかれても迷惑です。適当でいいんです。ただ自殺されるのだけは困るんですよ。しっかり寿命を全うしてもらわないと私が魂を取りにいけない。あなたはもう長くは生きられない。苦しみ抜いて死んでいく事になります。あなたより前に来た自殺志願者と同じように・・・。だって私の血のカクテルを飲み干したんですから。しかも何杯もね・・・。だから本来の寿命ではなく、かなり短くなった残りの寿命ですが死んだ時にはしっかりと私が魂を受け取る事が出来る。私にとってそれさえ守られれば他はどうでもいいんです。どうでもね・・・」
そう言ったマスターの顔は一気にバケモノじみた顔に変わっていき店内の空間も大きな歪みで支配されていく。
恐怖と気持ち悪さに私はもう意識を保つ事など出来るはずも無かった。
そして翌朝、私は道路に倒れているところを助けられた。
救急搬送された私は精密検査の末、体中のありとあらゆる臓器からガンが発見された。
全てが末期で治療の施しようが無く余命は長くて1か月と宣告された。
それでも何故か体は普通に動かせたし傷みも全く感じなかった。
医師は奇跡だと言ったが私にはそんな事はどうでも良かった。
ただあの夜のBARでの出来事が夢であって欲しいと心から願った。
しかし残念ながらあの夜の出来事は夢ではなく現実だった。
もう一度あの飲み屋街に行ってみたがやはりあのバーは存在すらしていなかった。
それではどうしてあれが現実だと断言できるのか?
病院から逃げ出した私が気付いたのは、それまでは全く視えていなかった霊というモノがはっきりと視えてしまう様になっているという事だった。
普通の生きている人間に混じって死んだ者たちが彷徨っている姿が常に視界に映り込んだ。
そして数日前から私の眼にはもう生きている人間が全く映らなくなってしまった。
街中にはドライバーの乗っていない無人の車が往来し生きている人間の姿が完全に消えてしまった。
だから今の私に視えているのは死者の姿だけなのだ。
もう私は体の殆どを死者の世界に連れ込まれているのかもしれない。
あの死神の手のひらの上で・・・。
 
 
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?