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畠山重忠公のこと

鎌倉殿の十三人、毎回楽しみですね✨

畠山庄司重忠公は、小さな頃から事ある毎に祖母から聞かされた「鎌倉の大柱石」。

鵯越で「馬が可哀想だ」と、愛馬三日月を背負い急峻な山坂を降りたという故事は、何度も寝物語に語られ、あたかも自分もその場に居合わせていたような、懐かしい感覚とともに想起されます。

上州佐波に起こった伊与久(五十久)党の始祖・弾正公は、我が家ではこの重忠公の五代の孫だと伝わり、それを誇りにしてまいりました。その後諫言に惑わされ、鎌倉は重忠公をパージ、その名跡は北条に奪われ、われわれ末流は各地に潜伏します。

五十久弾正公は、後醍醐天皇の綸旨を奉じた新田義貞公の生品社頭の旗揚げに同心し、鎌倉は皮肉にも切り捨てた坂東武者の末裔達によって破却されました。

本宗の弾正家は、あくまでも新田の御家人としての立場を貫き、金山城落城以降は牢人。今は伊勢崎の伊与久村にて帰農。

分家の采女家は、一族の生き残りを掛けて、北条方の諏訪神党滋野家、室町足利政権の武田ー真田家にお世話になり、命脈を保ちます。

以降我が家は、真田の吾妻武士団の一画を担い、徳川政権下の沼田真田藩の破棄後、歴史の裏に隠れて行きます。

語り伝えられる物事は、当然刻々世の移り変わりとともに装いを新たにしますが、その底流にある魂は恐らく変わらないのだと思います。

それにしても、所謂「負け戦」ばかりに組しているな~💦
しかし、今ここに「私」が居る、ということは、そんな中でも逞しく、ご先祖たちは生き抜いてきた証なんだな~と✨

改めて、重忠公、義貞公(私の父は新田の落人家系)、弾正公、采女様、孫七郎さん、紋三郎じい様、志よう子おばあちゃん、この系をお伝え下さって本当に有難う❗

午前中の稽古では、生徒さんから美味しい珈琲☕頂きました✨中煎りで飲みやすい。皆さんとの輪のなかに、伊与久は生かされています☺️🙏

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