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上州 国盗り物語

わたしんとこの歴史で、何で伊勢崎の古族だった伊与久氏が、新田由良衆(弾正家)と真田吾妻衆(采女家)に別れたのか、これがじつは今一つ解らなかった。

もともとは那波の家人であったとも聞いていた。
しかし新田の一騎衆とも言われている。
武芸を善くした天狗山伏だったとも聞いている。
う〜ん、謎だ。謎すぎる。
しかし関わりのあった氏族の流れを辿れば、おおよその来し方は知れるだろうとの予測はあった。

この本のタイトルを見て、ピンと来て、早速取り寄せて一読。ああなるほど、こういう経緯だったんだろうな……と得心できた所があるのでご紹介したい。

我が祖・伊与久采女は室町末期、上州が関東管領、北条得宗の取り合いから、武田、上杉(長尾)が加わる戦乱の頃に、那波本家を飛び出して信玄公の配下になり、真田信綱様に従い活躍した那波無理之助(宗安)殿率いる伊勢崎牢人(傭兵)衆の一人であったようだ。なんというか、あの頃から先祖は胸アツ展開を求めていたんだとわかって笑ってしまった。

此時の秋間口から箕輪城に攻め込んだ合戦は、なんと我らが勝頼公の初陣であった。
どおりで榛名周りの伊与久の村で、秋間から始まったと言われていた筈だ。
牢人衆を先鋒にして、山縣、馬場、尾幡、真田等の武田の猛将が続いたこの戦で、武田家の西上州支配は盤石となった。

後に采女は、これを買われて秋間を足掛かりに吾妻に入植し、出浦対馬殿の配下として真田の特殊経略に関わったのだろう。それ故、二言目には「武田武田」と言い、勝頼公には特別な想いを持っていたのだ、と。

この頃から今はほぼ五百年。昨日今日始まった「武田贔屓」ではないんだな、やっぱり。

と、言うことは、かの剣聖・上泉信綱や疋田文五郎、とも同じ空気を吸い、伊与久も武勇で名を成した一族であったので、もしかしたら言葉を交わしていたかも知れない(那波宗安殿は上泉殿の弟子らしい。)………なんて想像すると、なんとも楽しくなる。

この辺りの歴史、寺の過去帳が焼けてしまった今となっては、なかなか明らかには成り切らないかもしれないが、おお筋は間違って居ないのではないか、と思う。那波様のこと、もう少し調べてみよう。

上州国盗り物語 〜那波一門史〜
著者 藤原文四郎 2023年 郁朋社発行

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