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里山暮らしはやめられない        田畑に癒されて 後編

田んぼは水の世界

飯舘村では畑だけでなく田んぼもやっていた。彰夫さんが生きているころは、かなり年季の入った中古のトラクターで田起こし、代掻きをして、やはり年季の入った田植え機を使って田植えをし、稲刈りは近所の家に頼んでやってもらっていた。苗は近所で余ったものを頂いて、除草剤を一回だけ撒いていた。それでも草の勢いに負けて1年分も収穫できなかったように思うけれども、自家製のお米は格別だった。

私は2階の窓から眺める田んぼの風景が大好きだった。田んぼは水の世界だということを、実感したのが飯舘村だったのだ。
苗がまだ小さい間は空の青と雲が映る鏡のようで、苗が成長すれば風になびく様が美しかった。
田んぼの中を見ればゲンゴロウやタガメが暮らし、様々な種類のイトトンボやトンボたちが飛び交い、カエルが大合唱していた。サギや鴨、カワセミなどの鳥たちもやって来た。
田んぼの周りの水路には蛍が群生していて、その際に立つ木にクリスマスツリーの電飾のように蛍たちが光っていたのを一度だけ見たことがある。

また、一番下の田んぼには誠蓮(まことはす)という種類の、八重咲きの美しい蓮を植えて、レンコンを収穫するためではなくて、花と葉っぱを収穫するための蓮田にしてあったのだが、花が咲き始めると天国さながらの美しさだった。
その蓮田は震災から4年が過ぎたころに水が抜けてしまい、イノシシが入ってボコボコに掘り起こされ、あっという間に消えてしまった。あの美しい景色は夢だったのだろうかと思う。

避難先の家に飾った飯舘の誠蓮

田んぼがくれたもの

彰夫さんが亡くなってからはもう米作りはやめてしまったのだけれども、3年目に、隣町で自然農の農園を営んでいた知人が提案してくれて、その農園で研修を受けて周辺に移住した友人たち数名と、飯舘の友人家族も参加してくれて、手植え手刈り天日干し、肥料もやらない自然農の米作りを始めることになった。
子どもたちも来て、泥んこになりながらみんなで田植えをした。田植えや稲刈りの際、昼食を食べながら歓談するのも楽しみのひとつだった。夏には草取りの後に蓮の花見を行ったりした。

そのときのことで忘れられない思い出がある。飯舘の友人が赤ちゃんをおぶったまま屈み込んで田植えをしていたのだけれども、その様子を見ていた隣のじいちゃんが血相を変えて「そんなことしたらバカになっちまう」と叫びながらすっ飛んで来たのだ。隣のお宅から我が家の田んぼの様子はよく見えた。
子どもをおぶったまま田植えをしたら、頭に血が上って脳に障害が出る。昔の人はそのことをわかっていたから、赤ん坊は“いずこ”という籠に入れて、木陰に置いておいたものだということだったのだ。

私たち移住者は、そういう昔から受け継がれている当たり前のことを何も知らずにやっているから、地元の人たちから見れば「バカなことやっている」と映ることも多かったに違いないと思う。

もう一つ思い出すのは、稲架掛けのことだ。福島は“ツクシ”という名前の、トトロのような形をした稲架掛けが主流だったのだが、私たちは縦に二段の稲架掛けにした。それが慣れない私たちの建て方が悪かったのか、何度も倒れた。朝起きてカーテンを開けて、二階の窓から田んぼの方を見ると、ばったり倒れている稲架が目に入ったときのショックを今も忘れることができない。

田んぼをみんなでやったことで、私は少しずつ喪失の悲しみから救われていったように思う。
その前の二年間は家に引きこもり、誰にもほとんど会わず、何をやって何を食べていたのかも覚えがないほどの暮らしをしていたのだが、田んぼが再び世界と関わるための道を開いてくれたのだった。

拠って立つ場所

原発事故後はこの田んぼにも放射能が降った。6月になってから私は、米作りができないにも関わらず田んぼに水を溜めた。カラカラに乾き切って、もう誰も来なくなった田んぼを見るのがとても辛かったこともあり、ふと「水を溜めて田んぼビオトープにしよう!」と思い立ったのだ。
そうしたら、ゲンゴロウもカエルもトンボも、サギやカワセミなどの鳥たちも、それまでと変わらず生きもたちはやって来てくれて、素晴らしい田んぼビオトープとなった。

私は避難先から度々訪れて、放射能が降っても輝いているいのちの存在に触れているうちに、自分はそちらの世界に目を向けて生きていこうと強く思うようになった。そして、放射能に対する恐怖は消えてしまった。もちろん、致死量の高線量放射能は怖い。飯舘の我が家に降り注いだ、“ただちに健康に害はない”低線量の放射能に対してだ。

人間が撒き散らした放射能の中で、生きとし生けるものたちは日々の営みを続けている。
もしかしたら、放射能に弱い者たちは死んでしまい、強い者だけが生き残り命を繋いで行くのかもしれない。
死すべきものは死に、生きるべきものは生きていく。
恐れず騒がす、淡々と。
それが自然の摂理なのだ。
人間だけが殊更に死を恐れ、死から逃れるために右往左往している。
自然の摂理からは、たとえ人間であっても逃れることはできないのに。
人間は、放射能だけではなく、様々な汚染物質をこの世界に撒き散らしてしまった。
もう、どこへ逃げても同じなのだ。
だから、私はどこへも逃げない。

田んぼビオトープに通う中で、様々な考えが私の中を去来した。
それが誰にとっても正しい考えであるとは思わない。私に子供があったなら直後に福島を出ていたかもしれない。
あのとき、身一つだった私は、放射能に汚染された現場に立ち考えていくことで、壊れてしまうことなく、その後の福島で生きていくことができたように思う。

移住者の友人たちは避難地域内外に関わらず、ほぼ一週間以内で県外に出た。福島に残った私は、出て行った人たちのことを快く思っていなかった。家族単位で友人たちが出て行く中で、自分だけ取り残されてしまったという思いも当初はあった。
私が事務の仕事をしていたヘルパーステーションは、研修生を受け入れていた農園の奥さんが始めたこともあり、移住者の人たちと地元の人たちがいっしょに働いていたのだが、移住者で残ったのは私ともうひとりの二人だけだった。「いざとなったら移住者は出て行ってしまうんだ」という声もあり、同じ移住者として肩身が狭い思いがしたこともある。実際に出て行った友人と電話で言い争ったことまであった。

県外に出て行った人たちや、県外の人間が、避難地域外でも少しでも放射能が降った場所は危険だから、特に子どもたちは県外に逃がすべきだというようなことを語っているのを見聞きするたびに怒っていた。「福島の子どもを救え」と叫びながらの反原発デモも受け入れ難かった。
ちょっとしたことで腹を立てたり許せなかったり、ほんとうに普通の精神状態ではなかったのだと思う。

出て行くことができる人は出て行った。出て行きたくても残らざるを得ない人たちもいた。積極的に残った人もいた。逃げるなんて考えもしなかった人たちもいたことだろう。
あのとき、置かれた立場や考え方で私たちの道は分かれて行った。“分断”という言葉がよく使われたけれども、私はこの言葉が好きではない。
避けがたい災厄に見舞われたとき、道は分かれざるを得ないのだと思う。

あれから10年が過ぎてやっとこんなふうに冷静に考えられるようになった。人の価値観というのはほんとうに千差万別なのだということが身に沁みた。自分の行く道は、自分だけの道であり、他者に押し付けることなど決してできないと、この経験を経て強く思うようになった。

事が起こった時、私たちは、最後は自分で判断し、どうするのか決めなくてはならないのだ。政府も有識者もネット上に溢れる情報も、最終的な答えは提示してくれない。
それならば何によって決断をすればいいのか。
自分が拠って立つ場所はどこなのかを見極めること。耳を澄まし心の声を聞くこと。この二つが大切なのではないかと私は思う。
原発事故後、私が拠り所とした場所が、飯舘の里山であり、その中にある田んぼビオトープだった。そこに静かに佇んでいたら、私の行く道を示す確かな声が聞こえてきたのだった。

飯地の溜池と今年から稲作を試す予定の畑

そして、私は再び里山で生きることを選び今に至っている。
飯地の田んぼは耕作放棄されてから久しいから復活させるのは至難の業であるけれども、例えば陸稲であるとか、多年草化であるとか、いろいろな米作りを今年から試していきたいとTさんは言う。
私もいっしょにできることをやっていきたいものだ。

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