5 ヘンリー八世の宗教改革の余波


巨大な顔は見飽きたので、即位直後の画像を…

アイルランドとは関係ないが、度重なる王妃の死産や流産の理由はヘンリー8世が若い頃にフランスで罹患した梅毒が原因らしい。
だから、エドワード6世も先天性の梅毒を患って病弱で夭逝してしまったらしい。
全部自業自得じゃないか、エドワード八世…!!!
と、思わず込み上げた怒りをぶちまけたところで、
…さて、本題に入ろうかな。

キルデアの反乱

イギリスで、決して宗教学的な理由からではなく、離婚したいが為に英国国教会を設立するという宗教改革が、ヘンリー八世によって行われていた。
アイルランドでの宗教状況はというと、フランシスコ会やドミニコ会の修道士たちによって改革へと強い抵抗が行われ、従来からの宗教スタイルを変えようとしなかった。

そこで、責任者出てこいってことで、当時のアイルランド総督ガレット・オーグ・フィッツジェラルド(名門アングロ・アイリッシュで「大伯爵」と慕われていた人の息子)が、イギリスに召喚される。
出向く直前、彼は長男であるトーマス・フィッツジェラルドに、「こうまで文化も言葉も宗教も違う以上、恐らくイギリスとアイルランドの対立は避けられないことになるだろうから、先制攻撃を仕掛けろ」と託していた。

1534年6月11日、トーマスはシルクの縁取りをした上着を着た武装兵の一団を率いて、ダブリンに進駐。
「余はもはや国王の代理ではなく、彼の敵である!」と、高らかに宣言した。
このことでその後、「シルクン(絹衣の)・トーマス」と呼ばれるようになる。

だが、この反乱は王に派遣されたウィリアム・スケフィントン率いる精鋭によって鎮圧され、メイヌース城に立て籠もるものの、近代的な砲撃を前に為す術もなく、皆殺しにされてしまった。
首謀者であるシルクン・トーマス含めた五人も、ロンドン塔に送られて処刑されてしまう。

現代も廃墟として残るメイヌース城


ヘンリー八世、アイルランド王に即位

その惨劇から六年後、1541年にアイルランド議会はヘンリー八世をアイルランド王に推薦。ヘンリー八世はそれを受けて、アイルランド王に即位。
そして、名門キルデア伯爵家(フィッツジェラルド)は、後継男子全員処刑されて滅亡。

以来、ダブリンには常時イギリス軍が駐留し、その後、1922年に独立を果たすまでの400年物間、イギリス人総督の直接の支配を受けることになる。

テューダー朝が警戒していたのは、アイルランドがスペインなどの敵国に唆されて敵対すること。当時、イギリスがオランダを唆してスペインに反抗させていたように…。

そして、熾烈なヘンリー八世の時代に完全に制圧されてしまったので、その危険の芽は徹底して摘まれていくことになる。
まずは、アイルランド国教会を設立し、アイルランドの唯一の正当宗教と定めてしまった。アイルランド教会の重要なポストは、イギリスの改革派が占めるようになる。

ノルマン人に支配されて既に三世紀が過ぎていたが、アイルランド人は、独自の文化的伝統と言葉を保持し、自分たちが別の民族であるということを決して忘れていなかった。その為、イギリス王室公認の宗教として認めはするものの、ローマ・カトリック信者としての生活を改めることはなかった。
そして、ヘンリー八世の同化政策に気付くと、敵視を強めていく。


ヘンリー八世、思ったより酷くなかった!

フィッツジェラルド家が滅亡後、空白地帯となった所領を狙って、アイルランド領主たちは攻撃を仕掛けてくるようになる。
更には、イギリス入植者の元まで攻め入ってくるようになる為、イギリス側は幾度も遠征軍を送り出さなくてはならず、最善策を模索するようになる。

結局、ヨーロッパに亡命していたフィッツジェラルドの末裔を呼び出し、その地位を回復させて、アイルランド側の不満を抑えたり、恭順の意思を示した族長には領地保持を示したりという宥和政策を取ることになる。

この結果、アイルランド領主たちにも、イギリス王室の家を認めた方が、自分たちの利益にもなると分かり、イギリス支配が実質的に進んでいくこととなる。
イギリスとの調教路線を取り始めたアイルランド領主の子弟は、イギリス留学などでイギリス風紳士としての教養を身に付けていった。

1588年、イギリス海軍に打ち破られたスペインの無敵艦隊の生き残りが、アイルランド海岸に上陸してきたとき、アイルランド人は彼らを敵だと見做している。


トリニティカレッジ

世界一美しい図書館とも言われる大学内の図書館

エリザベス女王は1592年、アイルランドをイギリス化する為に、ケンブリッジ大学を範とした大学をダブリンに設立することを決意する。
こうして作られたのが、アイルランドの名門校、トリニティ・カレッジ。
近年、創立四百年目を迎えて、盛大な記念行事が催されたという。


酷いのはサー・ヘンリー・シドニーだった!

テューダー朝による支配は順調に進むかと思えたが、アイルランド北東部、アルスターはイギリスに対して強い警戒心を抱いていて、決してイギリスに同化しようとしなかった。

アイルランド総督サセックス伯トーマスは、例外を認めてしまえば他に示しが付かないと、武力や陰謀を用いて制圧しようとするんだが、どれも失敗に終わる。
重い戦費を担わされることとなったイギリス入植者が、エリザベス一世に直訴したことで、サセックス伯は失脚。

代わって1565年にアイルランド総督に任命されたのがサー・ヘンリー・シドニー。
彼は、サセックス伯よりも更に過激だった…。

没収した領地は細分化して、アイルランド系イギリス系を問わず、戦功のあった者に与えると公言した為、ペストから逃れようとイギリスに戻っていた人たちはこぞって戦功を求めてアイルランドに殺到した。

だが、この態度は、再びアイルランド人たちの敵対心を煽り立てることとなり、南部のマンスターでまで反乱が起こってしまう。

エリザベス女王も、流石に見過ごせずに、アーサー・ロード・グレイ・デ・ウィルトン指揮の下、8000の精鋭を派遣。
反乱の首謀者は、財産没収の上、みせしめの為、市中引き回しのうえ、絞首刑や八つ裂きの刑に処された。
更に、死ぬ前にローマ法王への忠誠を放棄するよう強要された。

マンスターには二万人を超える植民者がイギリスから投入され、おびただしい財貨がイギリスへと持ち去られた。

この影響は他の地域にも及んで、アイルランド人たちにアイルランド国教会への改宗を強要したり、それを拒んだ者は重税を課されたりと、宗教弾圧が加えられるようになる。

エリザベス女王はそんな強引なやり方は、再び反乱を招くと、方針転換を指示していたんだが、彼女はスペインとの戦争に神経をすり減らしていた為、アイルランドに十分な注意を向けることができなかった。
それをいいことに、歴代総督によって、アイルランドへの搾取や弾圧は続けられることとなってしまう。

そして、エリザベス女王が危惧した通り、アルスターで起きた反乱を支援する為に、スペインの4000の精鋭がフェリペ三世によって派遣されることとなる。
だがこれも、イギリスが急遽二万の大軍を送ったことで叩き潰され、逆にイギリスによるアイルランドの徹底支配を招くこととなってしまう。

そして、イギリス側も、アイルランド領主やカトリックに土地の所有を認めると、反乱を起こされる為、取り上げてしまえという意見が主流となって行く。
この時期に、反乱の地であったアルスターに大量にイギリスプロテスタント系の入植者が送り込まれた為、アイルランド独立の後も、北アイルランドとしてイギリスに残留し続けている。

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