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ごとばんさん

隠岐の島への途上、読んだといわれる歌
 我こそは新島守(にひじまもり)よ
     隠岐の海の 荒き波風心して吹け
私こそが、新しく来た島の番人である。隠岐の海の荒い波や風よ、今からは気をつけてもっと穏やかに吹くのだぞ)
誇り高さと心細さの同居した、胸打つ名歌に思われる。


恋愛面

流刑には、身分の高い女性を伴うことはできない為、最愛の女性だったという藤原重子や母である七条院とは泣く泣く今生の別れを告げることとなる。
だが、白拍子(男装の遊女)上がりの愛人の伊賀の局、女官身分であり続けた妻の坊門の局は隠岐の島へと付き従い、終生添い遂げた。

更に、我が子以上に可愛がっていた寵童上がりの北面の武士(護衛)能茂との別れも嘆き、その余りの哀しみように幕府も哀れんで、能茂の出家を条件に逢うことを許したという。出家して西蓮と名を変えた彼も、都と隠岐を行き来して、後鳥羽上皇との愛を貫いたという。後鳥羽上皇を火葬して弔ったのも彼だった。


村上氏

後鳥羽上皇の監視役兼世話を任されていたのは、隠岐の島で海運業を営んでいた有力者、村上氏。村上天皇の子孫だとも、村上水軍の子孫だとも言われているが、定かではない。
戦国時代より先に、茶の文化を取り入れていた人物らしいから、只者ではなく、治天の君への敬意も持ち合わせ、心を込めて後鳥羽上皇をお慰めしたという。
その為、後鳥羽上皇は、しょっちゅう村上家を訪れ、縁側で庭を眺めながら茶を飲んで過ごすことが多かったという。

現代でも残る村上資料館

上皇亡き後も、墓守として「村上助九郎」の名を引き継ぎ、それは800年後の現代でも受け継がれている。


隠岐の牛突き

後鳥羽上皇が、仔牛同士が角を突き合わせて喧嘩しているのを面白がっている様子に着想を得て、闘牛の催しも行なわれるようになる。
隠岐の牛突きとして、現代でも受け継がれている。

今では、牛と一緒のお散歩も観光の一環として取り入れられており、なんとも微笑ましい。


銘菓『白浪』

更に、都育ちの後鳥羽上皇の口に合うお菓子の開発も励まれ、ほろっとした食感の甘さ控えめな美しい和菓子もできあがった。


ごとばんさん

こうした様々な島での交流を経て、後鳥羽上皇は島の人々から慕われ、「ごとばんさん」と親しみを込めて呼ばれるようになる。
後鳥羽上皇も、そうした島の人々の営みを眺め、温かな眼差しを感じられる歌を詠んでいる。
  たをやめの 袖うちはらふむら雨に
     とるや早苗の こゑいそぐらむ
田で働く乙女たちの袖を打ち払うような雨が降ってきた為、早苗を植える為の田植え歌も、焦り気味で可愛いな。

世の営みは、生産業である地の営みと、それらを統治する天の営み、それぞれが必死で行なわれており、それを互いに理解しないと、不協和音の果てにぶっ壊れるんだろうな。
後鳥羽上皇は、地の営みで満ちるこの島で暮らして、じわじわと地の営みの苦労を納得し、心静まったんではないかと思う。

多才で様々な芸能や武芸に精通し、ことのほか和歌に長けていたごとばんさんは、雅な文化の最前線たる京都に戻りたい想いは終生抱いていたようだ。
それでも、良い意味でプライドが高かった為、「死んだ後には必ず成仏し、決して祟り神などになったりはしない」と明言していたらしい。

島で19年の歳月を過ごし、60歳で生涯を終えた。
島の人々が祠を建てて祀った隣に、隠岐神社が創建されている。

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