「七人の侍」野武士考⑱なぜ、野武士の生き残りは隠されたか?
(「七人の侍」を見た前提で書いてます)
問いの後半、
Q2 なぜ、わかりにくい表現なのか?
にたいしては、
A2 あくまで大衆娯楽映画として描くため。
結論はシンプルです。
以後、2回に分けて私なりの考えを提出し、この野武士考を締めくくります。
とにかく娯楽映画として大満足させる。映画そのものの爽快感を重視する。カタルシスです。
官兵衛が野武士を仕留めるたびに、一騎一騎 ✖ していくことに爽快さを感じた人は多いと思います。正義が悪を完膚なきまで叩きのめすさまを分かりやすく見せる工夫が随所にこらされています。
また、後災の含みは、見る者にとっての爽快感を損ないます。
官兵衛の
「今度も負け戦だったな、勝ったのはあの百姓達だ、わしらではない」
という戦いへの虚しさを感じさせる言葉。この効きも悪くなります。観客に「いや、まだ野武士たちが何人か生きているでしょう」など思わせては、興ざめです。
娯楽映画として、カタルシスを得るため、あえて野武士を極悪非道の集団として描きます。そして一方で、実は同情の余地のある存在である彼らへの憐みから、こっそり生存者を残します。しかしそれは極力わかりにくく表現にしているのです。
もう一つ、先の戦争との関係。
野武士の存在が、戦争の辛い記憶を呼び起こすものにしたくなかったのではないでしょうか。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?