「七人の侍」野武士考⑩本論と結論 作品に通低する野武士への憐れみ・共感
(「七人の侍」を見たことがある前提で書いてます)
本論です。問題提起を
Q1 なぜ、野武士は生き残ったのか?
Q2 なぜ、それは分かりにくい表現なのか?
の2つに分け論じます。2は1の検証がすべて終わってから移ります。
1は結論から言うと一番根底には、野武士に対する「憐み、共感」のようなものがあるのではないでしょうか。
憐れみや共感は同情や友情のようなものも含まれているかもしれません。とにかく野武士に対するシンパシーが、映画全体に通底し、全滅させるには忍びなかったのでは、と考えます。
たしかに本作において野武士は徹底した悪役です。一遍の同情の余地も湧きません。悪逆非道の限りを尽くす野武士に対して感情移入しながら、この映画を見る人は少ないと思います。
ですから、「憐れみ・共感」という表現は、あまりしっくりこないかもしれません。
しかし野武士の死を一人ひとりカウントして、あらためて感じさせられたのは、41人の野武士の死は一つとして、適当に描かれてない、ということです。それはただ死に方・パターンの違い、というだけではない。
例えば時代劇においてよくある「切られ役」の人が、ためらいもなく切りかかって、バサバサと斬られるような死に方は一人も出てこない。彼らは必死で生きようとして、そして殺されている。
この映画には野武士の人物描写がほとんどありません。しかし野武士には、過程として一人ひとりここまでの人生があるはずです。我々に見えるのは、それがここで終了するという結果だけです。
勘兵衛や菊千代、七人の侍たち一人一人には、丁寧な人物描写があり、個性と魅力があらわれています。人物ごとに深く掘り下げた監督の創作ノートもあると聞きます。
そのノ-トに野武士の事が書かれているかはわかりませんが、彼らの人生についても詳細に設定していたはずです。でなくては死ぬ間際の生に対する執着、あのような描写はできないでしょう。
ではなぜ、野武士に対してそのような「憐み、共感」を持つに至ったか、については次回以降といたします。
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