反省と後悔,そして期待へ

エスネコです.久しぶりの投稿となります.ここ数ヶ月くらいまともな文章を書いていなかった.やっぱり書くことをやめると思考が曖昧になって自信が持てなくなってくる.

僕は高専に通っている学生(2023年現在4年在学)だ.入試前後の状況は次のnoteで紹介してると思う.

これの最後を

今やっていることとこれから

今は自由に行動できる環境を作り、教育制度を変えるため、高専の勉強(主に数学)を中心に、自分の価値を高める修行をしています。

好きなことも、やりたいことも増えてきて、何を選び、何を自分の時間へ投影するのか。
最近は毎日好きなことをやっています。

笑って生きるために。

と締めました.あれからもう3年が経った.

この3年間は自分にとってとても大きな意味を持つことであり,大切な時間でもあったはずだけど,なかなかその本質を掴めないでいた.だから今までの3年間を振り返り反省し,後悔を思い出して今ある楽しさと未来への期待を考察することで自分が積み上げてきた価値というものを理解するため,今文章を書いている.

何があったか

大きなイベント

  • 読書体験記執筆

  • 関西旅行

  • 音楽

積み重ねてきたこと

  • ピアノ

  • 消費者であること

  • 学校での学び

大雑把にまとめるとこのぐらいだろう.細かいことは省いて重要で抽象的なものを優先的に書いた.一つずつ取り上げてく.

読書体験記執筆

これは僕の所属する高専で実施される,自分が読書して得られた体験そのものを文章で書き,一学年200人から上位5人が学外への出典をするものだ.僕は2020〜2022の1,2,3年生の時に書いて,1と3年の二回上位5人に入った.

多分これ.

一回目の入賞では学校の国語教員から「体験記というよりも評論に近い」と言われ,二回目の入賞では「文章も力強く,知性と感性に溢れた素晴らしい作品」と評された(一回目と二回目の教員は別人).

このことから,僕の文章力(文学力?)は高専生の中でも比較的上位に入ると言える.

昔の話になるが,僕は中学生までは文章力が皆無と言っていいほどなかった.しかし,中3の時に落合陽一さんや野口悠紀雄さん,外山滋比古さんなど文章力がとても高く,文学の教養と造形に優れる方々の本を読む機会が増え,文章を書くことの大切さを学ぶとともに,文学の美しさ,書くことの楽しさを教わった.

中学卒業後,一回目の高専受験に落ち,一時的に一般の公立高校へ入学した.結局半年ほどしか在籍せず退学したのだが,その半年間にnoteの100
日連続投稿をした(同時にTwitterでも色々と自分の思考を言語化をして投稿していた).この期間に僕の言語化能力は飛躍的に上がり,約半年後に一回目の読書体験記を書いた.

しかし,noteの連続投稿ではあくまでも思考の言語化能力が高まっただけであり,文学を自らの感性で感じ取り,また自身の心情を美しい文章で表象することができなかった.価値を理解していなかった(今も理解してるとは到底思えないけれど).

だからこそあの時先生は「体験記というよりも評論に近い」と言ったのだろう.僕の文章には心の情動を催すような心情描写がなかったのだから.

そこから様々な世界を見て歩き,人と会って話を聞き,自分の感性を育てた.上記した「関西旅行」や「消費者であること」はこの感性の育みの一部に過ぎない.

中学生の頃に日本の三大随筆である「徒然草」「方丈記」「枕草子」を読んだが,当時は数学的合理思考に絶対的価値を感じることしかできていなかったため,徒然草の賢人としての処世術や心の在り方などしか僕の心には響かなかった.しかし,ものを書いて,見て聞いたことを書く生活を繰り返す内に方丈記に記された万物流転の思想や,枕草子の芸術として圧倒される美しさの一部を感じられるようになった.

夏目漱石の「こころ」や小林秀雄の「無常ということ」など,文学を代表するような方々の作品を読むこともあれば,ライトノベルや漫画,時にはそれら全ての二次創作を読んだ.

そして,三回目の読書体験記執筆を通して得られた体験が僕の感性を大きく成長させるきっかけとなった.簡潔に言えば僕が無意識に書いて文章は穴だらけだった.「なんとなく」「感覚で」書いていたのだ.非合理も甚だしい.

国語の先生が当たり前の様に聞いてきた.なぜそう言えるのか,私の解釈はこうだけどあなたはどういう意図で書いたのか.
卓越した文章はその背後に潜む暗黙の了解までも内包している.その暗黙の了解を書くことができていなかった.言うなれば行間を書くことができていなかったのだ.

言葉とは思考の要だ.僕は人よりも言語化に労力が掛かる.言語優位の思考ではなく映像優位の思考が体に染み付いているから.だから意図的に文章を書くことをしなければ,文章を書くことの大切さを学び美しい文章を綴ることに憧れなければ,僕は言葉という道具を手に取ることも使い方を磨くこともなかっただろう.

関西旅行

旅行は定期的に行っている.井の中で積み上げた独創性に井から飛び出した先にある世界の多様性を取り入れることができるから.

僕は普段から外を出歩くことが少ない.なんの予定もない休日は玄関の外に出たら珍しいと自分でも思うほどだ.
それでも刺激と成長を求めて外の世界に飛び出したい欲求は常にある.自分から外に出ることもあるが,そのほとんどが人に手を引かれる形だ.

僕は景色を見る感性が欠けている.風景に興味を持って記憶することが苦手で,どうにもうまく感じることができない.
そんな僕の手を取ってくれるのは,世界を自分なりに受け止め形にすることが日常となっている人たちだった.

その中でも突出しているのが,親友のこいつだ.

いままで色々なタイプの同年代を見てきたが,こいつは他の人にない才能を持っている(プロフィールにおじさんと書いてあるがこいつはまだ19のガキだ).

何より特筆すべき才能は,自分の好きなことに没頭するというだたそれだけでは唯一性のない地味なものだ.
しかし,その没頭し長い年月を掛けて築かれた世界は,僕にとってほぼ全てが未知の世界だった.そして鉄オタであることがその才能に相乗効果を出している.

さきほど僕は自分は映像優位の思考と言ったが,こいつは真逆の言語優位の思考で物事を考えている.目の前に過ぎ去る風景を無意識の内に分析しその全てから自分の興味を拾い上げ記憶している.少なくとも僕にはそう見え,僕を感動させ続けてきた.

そしてその観察眼と記憶力が鉄旅によるフィールドワークによって具体化した結果,10代にもかかわらず僕の50代の父親と同じくらいの地理の知識が染み付いている.僕の父は10年ほど海の仕事をしており全国の都道府県の大半を訪れたことがあるが,その父の知識とあいつの知識がほぼ同じなことに驚愕する.むしろ,今はほぼ外に出ない父よりも,今も何かを求めどこかを歩いているあいつのほうが現代の知識では上なのかもしれない.

(あまりいい区分ではないが)僕は文理でいうとど理系にあたる.一方あいつはど文系だ.それは僕を魅了するには十分だった.
普段から興味ある物事について情報を仕入れ,食事をするように旅をしている.

そしてその才能は現場でその真価を発揮する.
経験則から導かれる状況予測が判断力に多様な移動手段の知識.限界まで費用を削減しながら価値あるものにはお金を払う感性,そしてなにより自分が楽しむために妥協しない確固たる姿勢.
その才能に連れられ訪れた世界は本当に楽しい物ばかりだった.

直近の旅行は2022/03に行った関西旅行だ.
それはたった4日だったが,今思い返せば自分にとって大切な何かを得られた気がする.当時は3〜4時間ほどの睡眠で活動をし,その先にある楽しさへと突き進む快感で満ちていた.

小さなミスによって計画が破綻する危険と隣り合わせになりながら歩く旅路は本当に楽しかった.楽しむために命を削るような行動が,楽しくてしかたがなかった.初日こそ体がついてこなかったが,あの時なにかが振り切れ傷つきながら前へと進めるようになった.

次はどこか海外にでも行きたいと話が上がっている.

音楽とピアノ

僕は小学生のころからYouTubeを見ているが,そのなかでピアノの演奏動画を何回か見たことがあった.きっとその時からピアノに惹かれていたのだと思う(姉がピアノを習っていたため電子ピアノが家にあったことも影響しているか).

音楽という人類文化の中でも大きなものであるそれは,とても楽しそうだった.その音楽を一人で奏でることができるピアノは,他者に合わせることが苦手で一人であることが多かった僕にはとても魅力的に映った.

そして,高専に合格した直後ピアノの独学を始めた.そしてそのピアノの独学を始めるきっかけであり続ける支えとなっているのは「まらしぃ」さんだ.

まらしぃさん自体は小学生の頃から知っていて,漠然とかっこいいと思い動画を見ていた.

ピアノを始める一ヶ月ほど前,僕は「東方Project」と呼ばれる作品群にはまった.そして,まらしぃさんもまた東方の大ファンだ(2008年8月に投稿されている「ネイティブフェイス」は東方Projectの作品のなかのゲームBGMである).その頃からまらしぃさんの動画を見る機会が増え,この人の同じ曲を演奏したいと思い,練習を始めた.今弾ける曲の大半は彼のピアノアレンジバージョンだ.それからどんどんピアノが好きになり,まらしぃさんを慕う思いが強くなっていった.

2021年3月2日に行われた「marasy piano live in BUDOKAN」で心の底から好きになった.その時はオンライン配信も同時にしていて,オンラインで視聴したが,終わった後なぜ現地にいかなかったのかとてつもなく後悔した思い出がある.

実はもう一つ音楽をやりたいと思ったきっかけがある.
それは2017年にYouTubeに投稿された「命に嫌われている。」というカンザキイオリさんによるボカロ楽曲だ.

僕がその曲を聞いた当時は中学生で不登校だった.人生で最も暗く寂しい時期だった.その時にYouTubeで「命に嫌われている。」の歌い手まふまふさんによるカバー動画を見た.

その時に僕は救われた.

なぜ生きているのかが分からず,漠然とした未来の展望に自殺が見え始めたころだった.

あの時に僕は生きる意味を手に入れた.それは今でも変わらない.
僕の原点だ.

音楽に命を救われたことは音楽を始めるには十分な理由だった.

音楽を続けていると世界の見方が変わり始めた.どこか理解できていなかった芸術の美しさだったり作品の価値だったりを感じられるようになった.物事の背景に有る,人の工夫や努力に共感ができるようになった.

ピアノを始めてもうすぐ3年半経つが,今更になって自分の下手くそさを自覚し始めた.それでももっと上手くなれるという謎の自信だけはあり続けている.

消費者であること

僕は人見るのが好きだ.僕にない価値をもっているから.何かをすれば人に会うことができる.何かを作れば作品を見てくれる人がいる.そして,誰かの作品を見ればその人やその人が作った世界や人を見ることができる.

何かを取るためには何かを捨てなければならないとは言うが,僕は作ることも享受することも両方諦めたくなかった.価値を生み出すクリエイターでありながら,価値を受け取る一人の消費者でもありたいのだ.

そう思いながら数年間生きてきた.

アーティストの独創性や研究者の唯一性は美しい.けれど僕はそれらの独創性や唯一性が大きな流れを生み出し,文化として紡がれていくのを見たい.どこかの誰かが生み出した何かが別の誰かに拾われて,それでまた何かを生み出して.

ただひたすらに自分の信じる価値を追求し,己がために命を賭す姿.

その大木の如く聳え立った姿が大きく枝葉を伸ばし,文化という生態系を成すところを見たい.
自分のままでいい.ただ,自分の想いを他者に伝えようとする努力がそこに加わればいい.

この価値の共有は消費活動によって成り立ち,消費者である限り誰かに伝え誰かに伝えられる.

等身大の自分が感じたものを共有したいと思う他者依存的行動の衝動はなくてはいけない気がする.

学校での学び

僕は経験を積み上げるために高専に入った.僕の憧れは,今を楽しみながら昨日よりも楽しいことを求めて貪欲に生きる人だ.

高専は工学を専門とする学校だ.そして僕は数学と工学,特に情報工学の能力や適正度が高い.だから,僕が学ぶべき専門知識と技術を身につけるために学校を最大限利用した.
消費者でありながら自分の感性を育てるためには,自分は何が好きなのか,何をしたいのか,手段,目的,費用,準備それら全てを自分で考えなければいけない.感性を育てつつ技術者としての修行を並行して行うには自分ひとりの力は到底足りなかった.だから,他者の力を借りることにした.目の前にいる本職が技術を身につけるための手順を設けてくれているのなら利用しない手はないだろう.

自分が何かをするために環境は重要じゃない.けれど,人に恵まれたのならそれは有難いことだ.

そして僕は人に恵まれた.一人でなんでもできると意気込みながら,今では人から与えられた思い出を大切に抱えている.

情熱とは,心の内側から湧き上がるものだと思っていた.確かにそうだ.それでも湧き出る理由は外側にもあった.いつだって欲しいものは自分の外にあった.

感嘆し尊敬しその価値を自分のものにしてきた.自分の予測とは違う結果となったとき,自分の想像とは違う意見が出たとき.そんなときに少しずつ自分の考えが変わり行くのを肌で感じた.

体験を経て学び,それを忘れてなお無意識の行動に影響を残すものをたくさん取り入れてきた.恵まれた出会いを糧にたくさん感じ作ってきた.
チームで何かを作ること,知らない世界を知ること,他者を受け入れて共有された価値を吟味し自分自身の価値を見直してきたこと.

高専では人間として大切なことを多く学んだ.

未来の

GPTなどが代表する生成系AIはすでに確立された創作活動の領域を荒らし始めている.それが本当に代行者となるのかならないのか.そして未知のものを作り出す能力において芯の通った感性が用いられるが,その感性を人工知能がもつのはいつ頃になるのか(僕は真の人工知能AGIの開発だと思う).

無常の世界には楽しさがあり,万物は常に変わり続ける.

人の創作に価値がなくなる世界の訪れはもう少し先だと思う.簡単そうに思える創作は案外難しくて,何に感動し何が楽しいのかを問うことができるのは人間だ.

人間の世界の認知に付随する思考は現実世界でないと起こり得ないのではないだろうか.計算機で閉じた系はエントロピーの増大をするのだろうか.

人工知能が人間の知能を超えるということは様々な形で議論されてきた.
そして生成系AIは平均的な人間の事務作業を十分に代行できる能力を発揮している.今はAIにはできなくて人間にできる価値を探る段階となっているが,AIにできることは更に多くなり多くなる速さも速くなる.
やがてそのAIの変化についていけなくなった人間は自分の本能のままに日々を過ごすようになる,という意見がある.
確かにAIの進化速度に人間の進化速度が到底及ばないのならばそうなるだろう.しかし,人工知能や電脳化などの技術によって人間の思考能力が拡張されることが起きれば人間と人工知能の境界はなくなり新たな生物として生命活動を始めるのではないだろうか.

だから僕は研究者として人間の拡張,つまりは人間と人工知能の境界をなくし楽しさの最高点を引き上げる方法を作りたい.

だから僕はクリエイターとして人間の在り方を,人間として生き死ぬまでの一筋の美しい流れを見てみたい.

だから僕は人間として命を抱えて生きたい.

希望も可能性も期待も全て手から零れ落ちていくような,夢を追って失敗するのが怖いからと最初から諦めるときのような寂しさがずっと胸の中に居座ってる.

いままで文章を書いたり曲を作ったりとしてきたが,未だ自身をもって掲げられるほどのものを作り出したことがない.一流のクリエイターは10代で大作を生み出している.だから僕もなにか作らなければならない.そんな思いが強くなる一方,研究者になるための勉強や修行で手一杯になって,焦りの兆しが出てきた.

そうだ,何か作らなければいけないと焦っている.もっと何か作れたのではないか.もっと作ったものを知ってもらえたのではないか.

今年は人生最後の10代であれる年だ.きっとこの年は大きな転換点となるのだろう.

ああなりたい,こうやりたいと無邪気で愚かな子供のまま夢を追って楽しく生きてきたのに,何かが邪魔をして前を向けない.今を楽しめていない.

きっと僕は周りの見えない馬鹿なのだろうな.心の表し方をちょっと身につけただけで美しい心を持っていると勘違いしていた.自分の心がひどく醜く思える.

それなのに今は絶望しながら未来に期待をしている.

この期待はなんなのだろう.
自分が楽しいと思えるものはなんなのだろう.

僕はなにを書きたのだろうか.なにを言いたいのか.
美しい心の表現で感動できた記憶が,表現が美しいと思い込ませている.

他の希望なんかすべて絶つことができるくらい最高の未来の訪れに期待する.楽しさを探る.

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