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桂光山敬心院 西福寺

空海と檀林皇后ゆかりのお寺です 檀林皇后は嵯峨天皇の皇后橘嘉智子で才色兼備と謳われた 学習館 天龍寺に檀林寺を造営した 生前空海に帰依しこの地蔵堂を度々訪れています
埋葬時に談林皇后の帷子が宙を舞帷子の辻へと向かったと伝えられています
空海作と言われている本尊の土仏地蔵尊は 檀林皇后が正良親王の病気平癒を祈願ししたことから子育て地蔵 として崇敬されている 子安地蔵 子育て地蔵とも言われている

寺には 六道絵があり 平安時代の檀林皇后を描いたと言われる 江戸時代初期の「九相図絵は」は遺体が変化していく様子を九つの段階に分けて描いた絵である  20年近く前に本堂に掲げられた六道絵を見たことがある 遠くからでもしつかり絵図は日本の貴重な絵画でもあるとその素晴らしさを確認できたとの思いでがある 撮影禁止とのことであったため  日本の歴史を見事な絵図で鑑賞できたことで満足している

商売繁盛の神様 末廣不動尊 お参りする人は多いとのことです

六道の辻

西福寺扁額檀林皇后と弘法大師

西福寺の扁額には六はら地蔵尊由来記が記載されている  人王52代嵯峨天皇(809〜822)  の御代 弘法大師が当地に地蔵像を建立し土仏の地蔵尊を安置せられる

地蔵尊の由来が伝えられている篇額と本堂の天井は見事な花天井が境内から確かめる事ができる

ここは鳥辺野の無常所の入口にあたり世に六道の辻と謂います 昔は六つの仏堂がありましたが現在は三仏堂が残っており  毎年8月のお盆には庶民の伝統行事お精霊迎えの六道詣りが幾百年も続いています

弘法大師六道の辻 地蔵堂開基の頃 嵯峨天皇(809〜823)の皇后になられた橘嘉智子姫 檀林皇后がしばしば参詣になられ 弘法大師厚くご帰依あそばされ深く仏教を極められたしとの事
亦 弘仁五年(814)皇子正良親王御病いの時 当地地蔵尊に御平癒 ご祈祷をされ無事ご成長なされて 後に目出度く54代仁明天皇(833〜850)御位におつきあそばされたので 世の人々は六道の地蔵尊 或いは六はら地蔵尊などと呼ぶようになりました  
と篇額に記載されている    

六道とは仏語で 衆生が生前に業因により生死を繰り返す 六つの迷いの世界 地獄 餓鬼 畜生 阿修羅 人間 天上をいう六道の辻は六道に通じる道の別れところの意味で一般的には 珍皇寺の門前のことを言い 松原通りの轆轤町新シ町の間を南に至る丁字をさす 珍皇寺ゆかりの小野篁が冥府との往復を果たした伝説から六道の辻と称された

この地 西福寺は空海が鳥辺野 無常所入口にあたる地に 地蔵尊を建て自作
の土仏地蔵尊を祀った ことに始まると伝えられ 六道の地蔵尊と称されている
寺宝に「六道十界図」がある 十法界図ともいう 仏教世界観に基づいた地獄 餓鬼 畜生 阿修羅 人間 天の六道と 声聞 縁覚 菩薩 仏の四聖を合わせて十界とし 各界の相を描いた 因果応報の理を図示した説話図をいう

珍皇寺

小野の篁 閻魔王宮の役人

 閻魔王宮の役人ともいわれ、昼は朝廷に出仕し、夜は閻魔庁につとめていたという奇怪な伝説がある。かかる伝説は、大江匡房の口述を筆録した「江談抄」や「今昔物語」「元亨釈書」等にもみえる
平安末期頃には篁が、閻魔庁における第二の冥官であったとする伝説がすでに語りつたえられていた。こうした篁の冥官説は、室町時代にはほぼ定着した。
今なお、本堂背後の庭内には、篁が冥土へ通うのに使ったという井戸があり、近年旧境内地より冥土から帰るのに使った「黄泉がえりの井戸」が発見されている

幽霊子育て飴

六道の辻ちかくにあり撮影の際 何度か立ち寄っています
初めて幽霊子育て飴を買い求めたのは相当以前のことですがその時の記憶は未だに忘れることなく記憶しています

幽霊子育て飴は 450年以上続く日本で最古の歴史ある みなとや本舗という という飴屋さんです


祖母から幼いとき 聞いてはいましたので訪れた時に買い求めましたと 女将さんに話した際 試食するように薦められました 麦芽糖で作られた京都らしい品のあるシンプルで極めて上品な味でした

なくなった母が幽霊となって夜 我が子に食べさせるため この飴を買い求めにお店を訪れた物語の飴ですね 江戸時代の物語を読んだことがありますと語った 

京都の方ですか 尋ねられた 京都には本籍がありますが 父が亀岡で生まれ西陣と行き来していましたのでその影響もあるのか よく京都人ですかと尋ねられます 京都弁が残っているようです 現在は芦屋に住んでいます
京都には古い歴史のお菓子がありますね 今宮神社のあぶり餅 北野天神の粟餅 聖護院の八つ橋も・・・・・・ と話題がつきなかった
女将さんは 子育て幽霊飴について知識があると考えられたのか 子育て幽霊飴には 日本人としての心の優しい母の深い愛情がかってあったことを物語がこの飴に込められています と語られ 資料を頂いた
 資料には江戸時代慶長4年江村氏は妻を葬りしあと数日を経て土中に幼児の泣き声あるのをもって掘りかえして見れば妻の産みたる児にしてありき 然るに其の当時掘り出された後来らざるなりと記載されていた
幼児は8歳にして僧となり高吊な僧となり68歳にして遷化されている

最近は京都へは可能な限り遠ざかってはいますがこの記事を執筆しているとお世話になった幽霊子育て飴本舗さんへ伺い 西福寺へ珍皇寺にお参りし祇園に高台寺に 青蓮院に拝観したいとものだと考えている 其の際に六道の辻の画像は確認できるがiMacが劣化したのか 画像の現像が操作できず掲載できないため新しい情報を掲載したいためでもある


嵯峨野の鳥居本近くにある愛宕念仏寺が珍皇寺の地にあったことが標識でも確認もきた


   


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