無差別テロとその虚しさ/「原作クラッシャー」をめぐるあれこれ/効果的な少子化対策/「バーナード嬢曰く。」7巻/「悪口」と「主役になること」

1月28日(日)晴れ

1月ももう本当に終わりに近づいて、月末や期末の仕事が増えてくる時期なわけだけど、暖冬だった今年もここにきて連日マイナス5度以下までの冷え込みになり、流石に大寒の時期という感じになっている。今の気温はマイナス6.4度。このくらいだと水道が凍結しないのでありがたいのだが、諏訪湖の御神渡りや野沢菜漬け、寒天製造など諏訪地域の「寒さ」を活用した産業や伝統的な産物みたいなものに関わる人にとってはちょっと困ったことになってるだろうと思う。地元の新聞を読んでいても「これからの冷え込みに期待」みたいな記事が結構出ていて、気候が変わると生活や産業まで影響が大きいということは改めて思う。

東アジア反日武装戦線のメンバーで50年指名手配されていた容疑者を名乗る人物が死の床についた状態で現れ、タイムラインではかなりその話題で持ちきりなわけだけど、彼らに関してはいろいろ論点はあるのだけれども思ったことを一つだけ書いておきたい。

「無差別テロ」という彼らが始めた手段はその後も左翼過激派の手段として一般には認識されていたが、オウム真理教がサリン事件を起こし、また単独犯による秋葉原無差別殺傷事件なども起こってみると、彼らが何をしたのか、というか何を達成できたのかということについて考えざるを得ないという気がした。

「無差別テロ」の反対には「要人テロ」があるわけで、歴史的に見ればこちらの方が歴史は古いし、日本だけでも何人もの首相・元首相が暗殺されている。まさか戦後に起こるとは思っていなかったが、安倍元首相が暗殺されたことは衝撃で、この事件はなんというかメディアやアカデミアにおいて不当に軽く扱われている気がするのだが、現状の政治状況・国際状況への影響はとても大きく、現在の自民党の政治資金の問題や派閥の問題、あるいはトランプがもし政権に返り咲いた時のカウンターパートの問題として、安倍さんの不在がいかに大きいかを考えさせられる。

一方で無差別テロについては彼ら極左過激派に対する忌避感が強まり、一部学生運動以来の左翼マスコミやアカデミアに擁護的に語られることはあり、彼らの反日というテーゼが現代の左翼運動に与えている影響のようなものはあるにしても、彼ら自身が何か社会を変えたかといえば成し遂げたものはないように思われる。

つまりマルクス以来の壮大な理論体系の実践者として出てきた過激派集団が成し遂げたことは、勘違いした宗教二世が突発的に実行してしまった要人暗殺に比べて実に影響力は低いように思われるわけである。

このことは、戦前に起こった原敬暗殺事件の犯人は一鉄道員であり、単独犯だったということになっているが、原という当時の政界における巨大な存在が失われたことで以後日本の政治は迷走を始め、関東大震災の衝撃もあって社会がすっかり変わってしまうきっかけになったことを思い出させる。

桐島容疑者(今の所らしき人物というしかないが)の確保というのは、改めてこうした思想の実践の無効性のようなものを白日の元に晒した事件だったのかもしれないと改めて思ったのだった。


マンガのドラマ実写化における「原作クラッシャー」の問題がタイムラインを流れて行っているけれども、この問題はマンガ「推しの子」でも取り上げられていて、今製作中のアニメ2期でそれが取り上げられる(ドラマではなく2.5次元舞台化だが)ことになるから、「推しの子」を読んでいる人には考えさせられる部分があるのではないかという気がした。

原作者とドラマ(演劇)脚本家の行き違いが起こるメカニズムみたいなものがマンガで明らかにされていて、主人公のアクアが間に立ってその行き違いを解決するように働きかけたりするわけだけど、現実のドラマではなかなかそうはいかず、最後の2回を原作者自身が脚本を書くということになり、脚本家の方が腹いせにインスタグラムで取り上げて、そのことについて原作者が出版社の支持を得てTwitterで事情を説明するという事態になって、こうした経緯から脚本家が攻撃される流れになってしまっている。

これは実際のところ、私自身もそうだけど、好きなマンガのアニメ化はまだいいが、実写ドラマかと聞くとまず「大丈夫か?」と思うことが多いし、「これはないだろう」と思ってマンガの実写化自体を見るのを敬遠していることもあるので、一言言いたくなる人たちの気持ちはよくわかる。

ただキャスティングにまで原作者にクレームをつけている人がいたりするけれども、それは「推しの子」の知識によればプロデューサーの権限なので、やはり内部のことがわかっていないと批判は難しい部分があると思うけれども、個人よりも「実写化された作品それ自体」を批判する方が筋ではあるだろう。

また、宮崎駿監督の「魔女の宅急便」に関し、原作者が強くクレームをつけていたという話も聞いたことがあり、原作は私も読んでみたが、後半部分の気球事故を助けにいくくだりは全く原作にはない話であって、こんなものを自分の作品だと思われたくないという原作者の気持ちももちろん分からなくはないのだが、アニメ化作品の方が有名になり評価されたりすると逆に原作者や原作ファンの声が届かなくなる、という場合もある。「風立ちぬ」や「君たちはどう生きるか」に至っては原作そのものが痕跡をほとんど留めていないわけで、そういうことから「アニメ化・ドラマ化されたものは自分の作品ではない」と最初から言明する原作者も多い。

問題になっている「セクシー田中さん」に関しては原作者がドラマ化に厳しい条件をつけたもののそれが全く守られなかったということがとっかかりになっていて、業を煮やした原作者が最後の2話の脚本を自分で書いて、それに脚本家が不満を述べ、それに対し原作者が事情を説明するといった何重もの行き違いがあったようで、それに関わる流れを関わる多くの人たちに納得させられなかった製作側の問題というふうにも考えられるわけだが、それ以上は想像になるのでいろいろ言いにくい。

この問題がこれ以上どう進展するのかは分からないからこういうことがあったということのメモ以上のことは書けないのだけど、いずれにしても冷静にこれからの展開を見た方がいいだろうとは思う。


少子化対策についてご紹介いただいたネットの記事を読んでみて、一番効果があるのは「小学校を統廃合しない」ということではないかと思ったのだが、この辺のところはまた改めて書きたい。



昨日時間がある時に読んでいたのは「バーナード嬢曰く。」の7巻なのだが、寺山修司の言葉がいろいろと出てきて改めて彼の「名言集」みたいなものをネットで調べたりした。

印象に残ったものに、「悪口の中においては、つねに言われている方が主役であり、言っている方は脇役であるという宿命がある」というのがあったのだが、確かに昔はそうだったと思う。言われている方の物語ばかりが紡がれていく。でもツイッターの時代になって、それを読んでいる人にとっては言ってる側の物語も紡がれているんだけどね。悪口を言う方が返って糾弾されると言うことが起こるようになると、今度は悪口を言った側が主役になるわけである。本人は気楽に悪口を言っていたつもりのことが多いから、主役にふさわしいような行動をすぐに取れる人は少ないのだが。

寺山は「悪口を言うほうが脇役で言われる方が主役なんだから、言う方でいるより言われる方になれ」と言いたかったんだろうなとは思う。寺山も悪口は死ぬほど言われただろうから。

しかし逆に言えば、「炎上」がたびたび起こる現在においては、「誰もが「主役」になれる時代」でもある。 あまりそう言う主役になりたいとは思わないだろうけれども、「炎上狙い」と言うのはつまりはそう言うことなのだなとは思った。

「バーナード嬢曰く。」7巻それ自体の感想としては、青春時代の微妙な距離感の描き方がどんどん先鋭化している感じがして、なんだかハラハラしたけれども、まあそれもあって面白く読めた、と言うことになるかと思う。

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