人のことを理解すること、自分のことを理解すること、人の心に届くとはどういうことか

9月16日(土)晴れ

昨日は午前中に母を迎えに松本まで行き、施設に送り届けて自宅に戻ってさてご飯を食べようと思ったらご飯以外に食べるものがなく、まあいいかと思ってレトルトのカレーで済ませたのだが、そんな時でも一色になるレトルトカレーというのは偉大だなと改めて思う。

仕事の最中にはかなりの降りの大雨があって、リビアのことを思い出したりしていたのだが、そうはならずにしばらくして止んだ。雨は景色を一変させる。雨はいい。降り過ぎなければ。

いろいろ頭の中をへめぐっていることはあるのだが、どうもうまく言葉にならないし、「アートと人間と社会」あるいは「人間とアート」みたいな話についても書くこともまだ全体像の構造が詰められてないのでこういうこともあるかなというような習作みたいな文章でも書こうと思っているのだけど、今朝はそこまでまとまった感じのものになっていない。

なので今日は関連した雑談、みたいな話なのだけど、最近マンガでは大学生が主人公の話が少なくなって、高校生が主人公の話がめちゃくちゃ多くなっているのだけど、この辺なぜなのかなという話をTwitterでしていたら、「高校時代が一番自分のことに専念できるから」というご意見があって、私はそれは大学生の時だったなと思ったのだが、今の大学生は文系でも出席も厳しいし、バイトも必要で、就職活動も早くに始めなければならなくて、自分に自由になる時間というのがむしろ高校時代よりも少ないのかもしれない、とも思ったりした。

私は早く大人になりたい子どもだったから(子どもは無力な存在なので早く自分の人生を自分で決められる大人になりたかった)、束縛の多い高校時代が人生の黄金時代みたいにはとても考えられないのだけど、成長するにしろ成熟するにしろ今を楽しむにしろ高校時代が一番それが実現できた、と思う人も多いのかな、とも思う。逆にそうしたかった、という人もまた多いだろうとは思うのだけど。

だから、マンガの読み方って(マンガだけではないけど)その人がどういう人生を送ってきたかに左右される部分はかなり大きいのだなと改めて思う。当たり前のことではあるのだけど、同じマンガを読んだ感想がかなり違うというのは、今の自分の人生にとって必要なものを摂取しようという無意識の欲求があるから、それが満たされれば良いと思う、というのは当然あるのだよなと思う。

誰にとっても、「人生についての考え方」は自分の人生に取材して組み立てられる部分が一番大きいだろう。虐待サバイバーとか宗教二世とかは本当に大変だなと思う。ずっと生きるか死ぬかだったわけだし。

しかしどんな恵まれた地方のお嬢様とかでも、自分でも気が付かない発達障害があったりして苦しんで、フェミニズムに目覚めてしまったりする場合もあるわけだから、どんな人間でも生きるのは大変だ、という面はなくはないし、そういう意味ではどんな人間でも「生きているだけで偉い」という面はある。

その人がどういう考え方か、というのは必ずしも言語化されてなくても、その人のライフヒストリーを聞けばそういう言動をとるのはなぜか、というのがある程度わかる場合もある。その辺は自分が歴史学をやったということが大きく作用していて、その人が無意識にでも考えることはその人がどのような経験をしてきたか、その人の個人史が重要、ということを考えてしまうからなんだろうなと思う。それは気をつけないとステロタイプに陥る可能性はあるし、どういう経験をした時にどういう風に受け取り、どのように対処したかまで含めて考えないともちろんいけないわけだけど、そこで苦しんだこととかの「苦しみの具合」みたいなことは、人にはわからないわけで、その辺は大事にすべきところなんだと思う。

これは「Landreaall」のDXとクエンティンの会話で、前王に自分の領地を滅ぼされ、クレッサールに連れ去られたのをDXの父リゲインに救われたクエンティンの王への憎しみについて、「なぜどんな風に憎んでいるかはわかるけど、どれくらい憎んでいるかはわからない」みたいなことを言うセリフがあったが(記憶によるので不確か)、「なぜ苦しんだのか」はわかるけど、「どのくらい苦しんだか」は他の人にはやはりわからないところではある。

だからそこは「慮る」しかできないところであり、尊重するしかない。その憎しみがよくない方向に暴発したらそれは止めるしかないし、止めないと新たな憎しみや苦しみを生むだけなのだけど、そこをどう評価指どう援助するかは基準と言うものがあるわけではないし、学説や学派みたいなものによって考え方がある、というくらいしかない。この辺は小山さんのノート、

を読んでいても思った。

トルストイの「アンナ・カレーニナ」の冒頭に「幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである」とあるけれども、時代によって人の幸福のあり方は違ってはきても、その時代においてはあるカラーがあるような気がする。しかし人の不幸というものは事情が全くそれぞれで、本当の意味で共感してもらうことは極めて難しい。

だから必要な援助の深浅やその規模などは人によって全く違うのだけど、それが公的扶助だと画一的にならざるを得ない面があり、公的扶助で救えることというのはもともとすごく限られたことだということもわかる。

まあ自分の力でマンガや小説を読んで生きる力を回復していくことができる人というのは、そういう意味では自立しているわけでそれはとても良いことなのだと思う。

ルカによる福音書でキリストは「羊飼いは九十九匹の羊を野原に残しておいても見失った一匹の羊を探しにいく」ということを言っているが、これは誰が言ったのか忘れたが九十九匹の羊のために働くのが政治の役割であり、一匹の羊のために働くのが宗教の役割だ、というのがあって、まあこれは「最大多数の最大幸福」ということであるわけだけど、宗教は一匹のためのものであり、またそれは文学や芸術もまた同じ役割を果たすのだろうと思う。

これは「2.5次元の誘惑(リリサ)」の中で奥村がツバキに「みんながクソゲー、クソコンテンツと言っていても、自分はやってみるし見に行ってみる、それが自分にとってかけがえのないものになるかもしれないから」ということを言っているのとある意味対応している。自分にとって必要なものは、他からの情報ではわからない、自分で体験してみて初めて自分にとっての意味がわかる、ということなのだけど、その人の不幸が他の人間にとって本当にはわからないように、その人にとっての幸福も本当は他の人にはわからない、だから本当に大切なものは情報だけでは判断できない、ということだ。

前者は他の人を理解する困難さ、不可能さについて述べているわけだけど、後者は自分自身を理解する困難さについて述べているのだけど、後者は実は不可能ではない、ということが大事なことなんだろう。もちろん「やってみなければわからない」ということは「簡単なこと」ではないかもしれないのだけど、「他人のことを理解する」ことが「究極的には不可能」であるのに比べれば、自分のことを理解することはまだ「可能性はゼロではない」わけで、そこを努力した方が建設的ではある。

人のためになることを何かしたい、というのも同じようなところがあり、何が人の役に立つのかということは考えていてもわからない部分はある。小学生だった杉良太郎氏が自分で一生懸命考えて養老院に自分のためたお小遣いで買える範囲の一番安い白黒テレビを持っていって寄付したら、お年寄りの人たちから拝まれてびっくりした、ということを言っていたけど、やってみなければ人が何を喜ばれるかはわからない。

そういう意味では行政は支援できることは限られているから、杉さんのような民間のボランティアができることは本当は相当大きいのだろうと思う。

また、「人を喜ばせる作品を書きたい」というのも同じで、まずは作品を書いて完成させて読んでもらわなければ読んでくれた人が喜ぶかどうかはわからない。作品を完成させることがまず第一に重要だ、と言われるのはそういうことなのだと思う。

まあはっきりと書きたいことを決めて書いてないからこの話は雑談なのだけど、とりあえず「人のことを理解すること、自分のことを理解すること、人の心に届くとはどういうことか」みたいな題をつけておこうかと思う。

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