「所得の再分配に対する日本的な考え方」と「1990年代以降の「幸せ」「豊かさ」観の変化が日本にもたらしたもの」
昨日はハイエクが「新しい自由」に反対していることについて書いたのだが、これは政府が累進課税制度等を取ることによって所得の再分配を行うこと、つまり高所得者から高い税を取り、インフラの整備等とともに低所得者に福祉を与えることによって低所得者に「選択の自由」を与えることを指しているわけだが、これは微妙に累進課税・所得の再分配についての自分の感覚と違うのでどこが違うのだろうと思っていた。
昨日色々な方のツイートを読んでいて思い当たったのは、所得の再分配の「目的」を、アメリカやイギリスで行った時の名目は、上にあげたように貧困層に「新しい自由」を与える、という、つまり「自由」を名目としたものであったのに対し、私が理解しているこの制度の目的はより「平等・公正な社会ないし国民共同体」を目指すために、というところにある、というところが違うのだなと思った。
現実問題として、経済成長と所得の再分配政策によって、日本は「一億総中流」社会を実現し、比較的所得の低い層まで中等・高等教育を受けることが可能になり、自宅を所有し大型消費財も購入することが可能な社会になった。それはつまり、平等・公正の観念の実現だけでなく、一般家庭の子弟にも「行動の自由」「選択の自由」を幅広く与えることに成功していたことは確かだろう。
その中で「より高い能力を持ち、より多くの利益をあげているものが正当な所得を得られていない」という主張に対して理解する空気が広がり、新自由主義的な改革が進められていくことになった。これは、平等や一定以上の生活水準が多くの国民に認められる「一億総中流社会」が続くということを前提に認められたものだと思っていたが、結局そうはならずにそうした社会はどんどん崩壊していき、「格差社会」と言われる現状に至ったわけである。
もともと日本には、保守的な経営者を中心に「家族的な経営」という理念があった。従業員の生活を保証し高い給料を出し福利厚生を充実させ、終身雇用を保証することでモチベーションを引き上げ、業績をさらに拡大することが正しい経営戦略、「日本的経営」であると考えられていた。
これは今考えてみると「和の精神」「日本精神」と言われているものに裏付けられていると思われるが、つまりは戦前の明治精神的な官民協調・労使協調的な考え方が平成初期まで生き残っていたから、と考えられるのでは無いかと思う。これは出光佐三「日本人に帰れ」を読んでいるとよく出てくるけれども、「人間を大事にしろ」というようなことがよく出てきて、それこそが日本的経営の精神だ、という感じになっている。
戦後も三木武夫らを中心とした国民協同党などは協同組合主義を掲げて労使協調主義を主張した。この流れは政治上からは自民党に吸収され、保守政治の一部になってしまったが、考え方としては経済界や社会を中心に、かなり根強く残ってきたように思われる。
そういう意味では、こうした「社会的公正を理由とした所得の再分配」を支えてきた「日本的協調主義」を破壊したのは1990年代以降に大幅に進められた「リストラ」であったことは間違い無いだろう。「日本的協調主義」を「時代遅れ」と退け、企業の生き残り・利益増大化を第一に掲げ、雇用を切り捨て、正規労働者を減らして非正規雇用を増やして国民生活を不安定化させた「新自由主義的改革」こそが「日本社会の豊かさ」を破壊した、と考えることはそんなに間違っていないようには思う。
また、こうした「日本的協調主義」は一面「日本社会の遅れた家父長主義の表れ」とも解釈され、フェミニズム・ポリティカルコレクトネス的な観念からも攻撃にさらされた。社会を支えていた「日本的家族主義」の「家族」そのものが攻撃の対象にさらされ、解体が進んでいくことになり、「豊かさ」の基準が「複数の人間が楽しく暮らせる家庭」から「自分勝手に自由に生きられる個人の充実」に移ったこともまた、「どういう豊かさを目指せばいいのか」の基準が浮遊してしまっている現在に繋がっているのでは無いかと思う。
日本人にとっての「幸せ」とは何か、「豊かさ」とは何かをもう一度きちんと考えるためには、「日本的パターナリズム」や「日本的家族主義」、「日本的協調主義」についても再評価していく必要があるのでは無いかと思う。
また欧米の「自由主義」の思潮から考える所得の再分配政策の意義も、日本ではまた違う形で受け入れられているということもはっきり認識しておかないと、議論が錯綜したりまた新自由主義の主張に絡め取られてしまう原因になってしまうのでは無いかということも思った。
とりあえず今朝はこんなところで。
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