「鎌倉殿の13人」第28回「名刀の主」を見た:梶原景時の滅びの美学
7月25日(月)曇り/晴れ
昨日は1日色々なことを考えていて色々と書くべきこともあるのだが、今朝は月曜日恒例の「鎌倉殿の13人」の感想を書こうと思う。
昨夜の放送は第28回「名刀の主」。建久10年(1999)4月12日に「13人の合議制」が成立してから正治2年(1200)正月の「梶原景時の変」までの期間が描かれていた。
最近の大河ドラマは、というか大河ドラマというのは最初の1963年に井伊直弼を描いた「花の生涯」以来ずっとそうなのだが、従来の歴史観の中で「悪役」とされていた人物を再評価しようというところがあり、今回の「鎌倉殿の13人」ではその主な対象は「三上皇を島流しにした極悪人」である北条義時なわけだが、その他にも源頼朝などそれぞれに「悪役」とされてきた人物を再評価する演出になっていて(逆に源義経などヒーローとして描かれてきた人物の暗黒面を描いたりもしているわけだが)、その重要な一人が梶原景時だったと思う。
梶原景時は主に讒言によって義経を陥れ、兄弟の仲を割いて義経を滅亡に追いやった人物として考えられてきたわけだが、このドラマでは折り目正しい、教養を持った、しかし与えられた職務には冷徹なまでに忠実な、それでいて義経の天才的軍略には心の底から信奉し陶酔している人物として描かれていた。特に最後の性格づけは斬新で、「義経強火担」などとTwitterでは言われていたが、そのある種の屈折が中村獅童さん演じるこの役の一つの特徴として描かれていた。
景時は石橋山の戦いの際、頼朝を見つけたのにそれを見逃したことをきっかけに頼朝の傘下に入るわけだが、再起を図る頼朝軍が房総半島で上総介広常の説得に行く際に義時と出会い、「名刀として働きたい」というようなことを言ったことが思い出される。
景時は頼朝への忠誠と同様に頼家にも忠誠を尽くすが、それは自分が「名刀」として評価され正しく使われることを望んでのことであったけれども、自分をうまくコントロールできない頼家に諫言したために疎んじられ、また厳しすぎるほど厳正な対処をされてきた御家人たちの反発を買っていて、頼朝の支持のみを権力の源泉にしていたのが、それが失われると脆くも失脚してしまうことになる。
後の自分の大病や比企の乱により頼家が失脚し暗殺されてしまうことを考えると忠実な部下であった梶原景時を切ってしまったことが失敗だったと「愚管抄」で慈円が評価しているけれども、それはおそらく正しいのだろう。名君というのは、それも自分独自の武力を持っていない御神輿に乗った権力者というのは、部下をいかにうまく使えるかが生命線なわけだが、頼家は絶対権力者であろうとして最も忠実な郎党であった安達盛長を誅殺しようとし、よほどのことがない限り怒らない義時や母・尼御台所の政子にも叱責されて面目が潰れてしまう。
そこに結城朝光が頼朝の死を嘆き「忠臣は二君に仕えず」と愚痴をこぼすとそれをきっかけに景時が結城を罰しようとするが、阿波局(実衣)が結城に味方して三浦義村を中心に景時糾弾の署名が回され、66人もの署名が集まって、頼家に申し開きを求められても何もせず、梶原に対する悪感情の残っていた頼家に謹慎を申し渡されるという結果になる。
これは頼家にとっても梶原にとっても不幸なことだったが、元はと言えば「頼朝様は御家人を信用していませんでした」と吹き込んだのは梶原だったので、ある意味自業自得であるともいえ、頼家の支持を期待していた自分の迂闊さを思い知らされる。
署名を頼家に渡すことに最後まで抵抗したのが大江広元で、その理由が「不憫であるから」というのは感情があまり表現されない広元の真情という感じでよかったのだが、このドラマでは和田義盛や北条時政のようにいつも開けっ放しの感情表現をする人物と、大江広元や梶原景時のように滅多に感情を表に表さない人物、義時や泰時のように戸惑いながらも「正しい」道を選択していく人物という三者三様が描かれていて面白いなと思う。
それを聞いた後鳥羽上皇が梶原に京に来るように誘ったというのは史実ではないだろうが、このドラマでのフィクションを考えに入れると、京でもう一花咲かせたいと考えた景時が義時にのみその心情を漏らし、義時は「義経の鎌倉攻略作戦を知っている景時」が京側につくことの重大性を鑑みて、頼家に注進し梶原は島流しにされることになる。
最終的に梶原は比企の館を襲い頼家の長子・一幡を人質に京へ上ろうとするが義時に諌止され、刺客・善児を義時に預けて館を離れるが、義時は頼時に追討を命じる。「武士として散るのが梶原殿の望みである」と。
今回は息を持つかせぬ45分間で、後半になればなるほど盛り上がったのは、景時をめぐるドラマがどんどん急展開していったからだろう。三浦義村の策謀やその上手を言った牧の方(りく)の策謀合戦も面白かったが、合議の時は居眠りをしているのに頼家に抗議する時には凛然とした安達盛長や、結城や三浦に手玉に取られる阿波局(実衣)もなんともいえないところがあった。
義時の兄の宗時が最期の言葉として源氏なんてどうでもいい、坂東武者の関東を作るんだ、ということを言っていたのと同じように、出会った時の梶原は源氏は飾りに過ぎないということを最後に義時にいうわけだが、これは「北条あっての鎌倉ではなく鎌倉あっての北条」という義時自身の言葉とも相まって、坂東武者(御家人たち)にとって必要なのは「源氏将軍=鎌倉殿」ではなく「鎌倉殿を頂点とした政治制度=幕府」であるということが再度確認されるのは、梶原が本来は真の同志であったということと、梶原が「死は己を知る者のために死す」と最後の賭けを上皇に求め、それを義時に阻止させるというある種の滅びの美学に「名刀になれなかった自分」の弔いという意味を込めるのを最後の華とするいう演出が、ある種の梶原讃歌であったと思った。
中村獅童さんも、やはりそういう人物として梶原を演じたのだなと思う。
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