保守あっての寛容:世界的な負のスパイラルから抜け出すためには

11月24日(水) 曇り

だんだん寒くなってきた。今朝車を走らせて諏訪湖畔を走っていたら、雪のようなものがちらついていた。湖畔で写真を撮って帰ってきたが、季節は確実に進んでいるなと思う。

このところマンガのことなどについてしか書いていないので、少し世の中のことやもっと他のことも書こうと思うのだが、世の中のことを考えていると、どうも世界中かなりの人がおかしくなっているのではないかという感じがとても強くなっていて、このままでは良くないのだろうなあと思いつつ、どこにその問題を指摘する焦点を絞ればいいのかがよくわからない感じになっている。

環境の問題、フェミニズムの問題、国家財政と景気浮揚策の問題、雇用の問題、リベラリズムの問題、中国やロシアなどの全体主義的な諸国家の問題、ポリティカルコレクトネスの問題、イスラム原理主義の問題、難民の問題そのほか検討すべきことはたくさんあると思うのだけど、一番大きいのは日本も世界もそうだが他者に不寛容になる傾向がとても強くなっているということで、それは「保守あっての寛容」、つまり自分たちの生活やコミュニティが順調であるからこそ寛容でいられる、ということであるはずなのに、その「保守」つまり自分たちの生活や生き方が脅かされていると感じる人が増えているということだろう。

つまりここで言いたい「保守あっての寛容」というのは「衣食足りて礼節を知る」ということなのだが、今の日本は、というか世界もそうだが衣食も礼節も足りないというかどんどん失われていく負のスパイラルに入っている感じがする。

そのスパイラルを抜けていくきっかけが作れるのか、またあるいはスパイラルを抜けること自体がそもそも可能なのかはよくわからないのだけど、たとえば現在日本が世界的に見れば奇跡的に新型コロナの感染が抑えられているように、日本社会の底力みたいなものがそういうものから脱出する鍵になる可能性はあると思う。

そのためにはおそらく、我々は日本社会というものをもっと知らないといけない、というかこの社会がどういう社会なのかをもっと深く知らないといけないと思うのだが、残念ながらそれをやるべき社会学とかはあまり役に立ってないようだ。恐らくは方法論や論を立てるスタンスに問題があるのだろうと思うけど、そこは知恵を出し合って危機を脱出するための道のようなものを探っていかないといけないと思う。

その鍵になるのはリベラリズムではなく、恐らくは「保守」と呼ばれる方向性の「思想」のようなものではないかと思うのだが、その辺を少しずつ考えて行けたらと思っている。


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