新版 動的平衡 生命はなぜそこに宿るのか

福岡伸一さんの著書です

イントロ

大学教員よりベンチャー、ノーベル賞より億万長者

第1章

記憶について、アンガー博士によるネズミの実験から得たスコトフォビンについて

・すべての生体分子はつねに「合成」「分解」「更新」の対象となる流れで構成されているのに、なぜ分子に保存されると仮定される「記憶」は存在するのか→ビデオテープのような存在はなく、一時点での平衡状態であるしかない

・人間の記憶とは、ビデオテープのように古い順にならんでいるのではなく、「想起した瞬間に作り出されている何か」である。懐かしいのは過去ではなく、現在である。鮮烈な過去の記憶は、何度も想起し、いとおしみ、改変したものである。

・大人になるとなぜ時間は早くすぎるのだろうか→体内時計で説明できる 細胞分裂や分化プログラムの時間経過はタンパク質の分解、合成サイクルによってコントロールされる、つまり、タンパク質の新陳代謝速度が体内時計の秒針となる そして、年齢を重ねるごとに新陳代謝速度は遅くなる 

・空耳、空目、壁のシミが人の顔に見える、虹が七色に見える、脳のバイアス、脳に焼き付いているパターン化は自然の微妙なずれや複雑な精妙さを消し去ってしまっている

・この目でみている自然はデフォルメされているものである、デフォルメは脳の得意な操作である 視覚に限らず、差異を強調し、不足を補い、ランダムに推移する自然現象を無理やり結びつけることは、生きていく上でとても都合のいいことであった。(赤と青を足したら紫ではない、ということを思い出した)

・これから生きていく上には、生存そのものでなく、生存する意味を問うて生きていかなければならない。

・脳は、振動的、対数的、変化するものはうまく捉えられない。

・進化は、私たちにバイアスをかけ一定の規制を引いたが、同時に自由への可塑性があり、生物学的規制の外側への思考が可能となる


第2章

・汝とは、汝の食べたそのものである。

・合成と分解の動的な平衡状態が「生きている」ということ

・「コラーゲンたっぷりの食品」というのは、生物をミクロな部品からなるプラモデルのように捉える、単純すぎる生命観であり、ある意味ナイーブすぎる機械論である

ペニー・ガム思考


第3章

・自然界の現象とは、非線形である。しかし、人間は、入力が増えれば出力も伴って増えるというように自然界における因果関係を単純化させて理解しようとする。これが理解を曇らせる。


第5章

ES細胞、iPS細胞、STAP細胞について

・えびす丸1号について(ノックアウトマウスの実験) 膵臓の役割を欠損させたマウスは、全くの異常も変化も発見できなかった。生命は、欠損を何らかの方法で埋めようとする。機械とは違う、生命の柔軟さ、可変性、バランス保持、これらを「動的平衡」と呼ぶ

原理ブラックボックス

・生命は、欠損を埋め合わせるように平衡から平衡へ移動できるのが本質。しかし、欠損のために補完された平衡は、正常な平衡と異なるものであり、そこに脆弱性が隠れているのかもしれない。

「役に立つ基礎研究」、、、、、、、便宜上


第8章

・バイオテクノロジー全盛期の真っ只中、私たちは生命をパーツの集合体と捉え、パーツが交換可能な一種のコモディティ(一般化したため差別化が困難となった製品やサービスのこと)であると考える。その背景には、ルネ・デカルトがある。

カルティジアン(デカルト論信者)

・心臓はポンプであり、筋肉と関節はベルトと滑車だ。生命現象はすべて機械論的に説明可能であり、心臓などの運動は力学によって数学的に説明できるという。自然は想像主を措定(推論のたすけを借りないで、ある命題を主張すること)することなく解釈できる。

・犬が吠えるのは身体のバネが軋む音であり、犬には魂や意識はなく、あるのは機械論的なメカニズムだけだ。

・ラ・メトリーは、また人間も機械論的に論ずるべきであると主張した。

・現在の我々も臓器を売り、遺伝子に特許を取り、細胞を操作する。商品化さえ行う。この背景には、デカルトの生命の機械論的な理解がある。

・カルティジアンに対するカウンター・フォースとして考える2つの可能性

1.生命の持つ動的平衡の考え方(イクイリブリアム)を、生命と自然を捉える基本とすること

生命とは何か?→「自己複製可能なシステム」 この定義に足りていないもの「可変的でサステイナブルなシステムであること」

生命観のコペルニクス的転回(カントが自己の認識論上の立場を表わすのに用いた言葉。これまで,われわれの認識は対象に依拠すると考えられていたが,カントはこの考え方を逆転させて,対象の認識はわれわれの主観の構成によって初めて可能になるとし,この認識論上の立場の転回をコペルニクスによる天動説から地動説への転回にたとえた。 ぶりたにかこくさいだいひゃっか)

標識アミノ酸(流れの存在とその速さを目に見えるものにしてくれる)により、人の生命を構成している分子は分解と再構成のダイナミズムの中にあると示してくれた。全くの揶揄ではなく、生命は川のごとく流れの中にあり、その流れを止めないために食べ続ける。その分子たちは、相互に関係性を持ち、流れを、秩序を保ち続ける。個体は、感覚としては外界と隔てられた実態として存在するように思えるが、ミクロのレベルではたまたまそこに密度が高まっている分子のゆるい「淀み」でしかない。分子は、環境からやってきて、いっとき、淀みとしての私たちを作り出し、また環境へと解き放たれていく。

つまり、そこにあるのは流れでしかない。その流れの中で、かろうじて一定の形を保っている。その流れ自体が生きているということである。この生命の特異的なありようを「動的平衡」と呼ぶ。

生命とは何か→「動的平衡なシステムである」 生命現象とは、構造ではなく流れのもたらす効果である。

サステイナブルなものは常に動いている。流れながらも、環境の間に平衡を保っている。常に分解と再生を繰り替えす。保守的。

閉塞的、古臭さを打開する新しいヒントとなるだろう。

遺伝子組み替えは期待されるほどの農作物の増収に繋がらず、臓器移植は決定的に有効といえる延命治療とはいえず。こうした事例はバイトテクノロジーの過渡期(古いものから新しいものへと移り変わっていく途中の時期)を表しているのではなく、動的平衡としての生命を機械論的に操作することの営為の不可能性を表しているのではないか。

2.ライアル・ワトソンによるカルティジアンへのアンチテーゼとしての新しい自然学の再構築である。

動物たちは、人間に聞こえない声で歌っているのである。(超低周波)

豚の実験による「心の理論」の存在

・エントロピー増大の法則 エントロピー→錆び、乾き、破壊、などの乱雑さ 秩序あるものはすべて乱雑さが増大する方向に不可避的に進み、その秩序はやがて失われる ここでいう秩序は「美」であり「システム」である

・生きるということは、動的平衡により、エントロピー増大の法則と折り合いをつけているということである。

・私たちは、動的平衡に委ねるしかない。

・アンチ・アンチ・エイジング。

・今、私たちはあまりにも機械論的な自然観、生命感に取り囲まれている。そこでは、インプットを二倍に増やせばアウトプットも二倍に増やせるという線型的な比例関係で世界を制御することが至上命題となっている。その結果、常に私たちは右肩上がりの効率を求め、直線的に加速する。それが、ある種の閉塞感を生み、さまざまな環境問題をもたらした。私たちは、反省期にあることも事実であり。線型の幻想に疲れ、より自然なあり方に回帰している。効率より質感を求められ、加速は等速に、直線は循環に変えられる。この流れこそがロハスの思考である。渦巻きとは、おそらく自然の循環性をシンボライズする意匠そのものなのだ。そのように考えるとき、私たちが線型性から非線形に回帰し、「流れ」の中に回帰していく存在であることを自覚すべきである。


第9章

・「生命には、物質の下る坂を登ろうとする努力がある。」(アンリ・ベルクソン 創造的進化)

・目的論的(哲学で、すべての事象は何らかの目的によって規定され、その目的に向かって生成変化しているとする立場)な進化論は、無目的、ランダムな突然変異と環境による自然選択だけを進化の動因とするネオ・ダーウィニズムの潮流の中では、時代遅れに思える。

・エントロピー増大の法則すなわち、熱力学第二法則には誰も抗えない。増殖するエントロピーを絶えず体外に捨てることで、不安定ながらも見かけ上、ある一定の期間崩壊しそうになるたびに秩序を作り直すことを続ける。

・平衡といえども、静的な平衡点はなく、常に動的であり、自然とは開放系である。


感想

なるほど。いわゆる"アレ"ですね。 都合がいい世の中になりました。

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