ホモ・デウス 上

第1章

飢饉と疫病と戦争は、生物テクノロジー、情報テクノロジーによってどう変わるか

生物学的貧困は昔、政治的貧困が今 食べずに死ぬ人よりも食べ過ぎて死ぬ人の増加

ジャングルの法則とチェーホフの法則を破る私たち→使用されない核爆弾やミサイルによって平和が保たれ、暮らすことに慣れている

前例のない水準の繁栄と健康と平和を確保した人間は次に不死と幸福と神性を求める可能性が高い。ホモ・サピエンスからホモ・デウスへ。

現代の科学と文化は、生と死を違う形で捉える。21世紀には人間は不死を目指し努力する。私たちは事あるごとに人間の命こそもっとも神聖なものと教えられる。死は人道に反する犯罪であり、総力をあげて戦うべきだ。しかし、宗教とイデオロギーは生命そのものを神聖視しない。この世での存在以上のものを神聖視し、その結果死に対して非常に寛容だった。人間の死は神の定めであり、死の瞬間は生きていた意味が溢れる瞬間である。

エピロクス主義に対照的な現代思想家、幸福は個人的に追求するものである←→最大多数の最大幸福 ベンサムによる国を強化するための国家の巨大な制度は、国民の幸福を追求するものとして次第に受け入れられるようになった。国が私たちに尽くすのである。

快感こそ幸福となる。しかし快感は、儚く無意味な気の迷いであり過度な追求は惨めである。

人間は不死と幸福を求め神にアップグレードしようとしている。生物工学、サイボーグ工学、非有機的な生物のアプローチがある。

人類の課題は神性を獲得することである。ここでの神性は超自然的でも全知全能でもない。


第一部

第2章

生き物はアルゴリズム 豚のような動物が欲求や感覚や情動の主観的世界を持っている 情動はアルゴリズムで表すことができる

もしコンピュータプログラムが人間を超える知能と空前の力を得たとしたら、人間以上に高く評価するべきなのか。たとえば、AIが自らの欲求を満たすために人間を殺すことはよいのだろうか。許されないのならば、人間が豚を殺すことは倫理にかなっているのだろうか。そもそもなぜ人間はこのような力を身につけているのだろうか。

第3章

伝統的な一神教ならば、人間には不滅の魂があると考える。肉体だけが滅び、魂は救済あるいは永遠の断罪に向かって旅をし、楽園での永遠の喜びを味わうか、地獄で悲惨な状態にとどまる。

ところが、最新の科学的発見はみな、この一神教を否定している。一神教信者の言う通り、動物たちには魂らしきものはどこにも存在しない。そして、それは人間にも同じことがいえる。体の隅々まで探そうが、魂という不思議な輝きは見つかっていない。進化論は一神教信者の間にとどまるところを知らない憎しみを引き起こすのはこの矛盾のせいだ。

怒りや愛、苦痛や快楽などの主観的経験は本当に存在するのか。どの主観的経験にも根本的な特徴が2つある。感覚と欲望だ。空腹という不快感から、食事を欲望する。

動物には主観的経験は存在するのか。最新の理論では、感覚と情動の裏には生化学的なデータ処理アルゴリズムが存在すると主張している。人間も同じく、主観的経験の裏には無意識のアルゴリズムだけが潜んでいるのではないかと言われている。(近代哲学の父、ルネ・デカルトが支持)←これ機械論のことですかね

科学者は、脳の電気信号がどのように主観的経験を生み出しているのかわからない。

脳で怒らないことで、心で起こることは何か。もし何もなければ、心は必要なのか。もし神経ネットワークで起こること以上のことが心で本当に怒っているのならそれは一体どこで怒っているのか。 言い換えると、今日では生き物はアルゴリズムであり、数式で表せるというのが定説となっている。(ライオンの接近に驚いた脳がふむ一連のステップを書き表わせるように)そして、意識的経験が重要な役割を果たすならそれは数学的な表現があるに違いない。その厳密な計算の中に、恐れの主観的経験が指摘できるはずだ。しかし、データ処理システムの中にはそのような機能はひとつもない。

心と魂の違いは明確にある。 心は実証可能の現象であるのに対し、魂は推測でしかない。

ラットを水をいれたガラスの中に入れる実験

チャウシェスク 最後の演説 "ルーマニア革命"

客観的現実(重力)、主観的現実(頭痛)、そして共同主観的現実(お金)


第二部

第4章

虚構を目指して走る人間、上でなりたつ協力ネットワーク、神話、物語

第5章

現代世界は、近代以前の世界とは全く違う。エジプトのファラオや中国の皇帝は何千年も努力を重ねたのに飢饉と疫病と戦争を克服できなかった。近代社会はそれを数世紀のうちにやってのけた。これこそ、共同主観的な神話を捨てて、客観的な科学知識を採用した成果ではないか?

しかし、物事ははるかに複雑である。近代科学は神話を事実に置き換えたのではない。科学は神話の力を強めるばかりである。科学は、共同主観的な現実を打ち砕くどころか、共同主観的な現実が客観的現実と主観的現実をかつてないほど完全に制御することを可能にするだろう。そして人々が虚構に合うように現実を作り変えるにつれて、虚構と現実の違いがあやふやになっていく。

人は、宗教を迷信や霊性、超自然的な力の存在を信じることや、神の存在を信じることなどと、実に頻繁に混同する。人間の法や規範や価値観に超人間的な正当性を与える網羅的な物語なら、そのどれもが宗教である。宗教とは、社会秩序を維持して大規模な協力体型を組織するための手段である。

宗教は、科学研究の倫理的正当性を提供し、それと引き換えに科学の方針と科学的発見の利用法に影響を与える。

宗教は秩序に関心がある。社会構造の創出、維持を目指す。

科学は力に関心がある。病気を治し、戦争を行い、農作物を育てる力を研究し獲得する。

科学と宗教の集団的な組織としては、真理よりも秩序と力を優先する。両者は相性がいい。

人生の意味とは何か、善とは何かというような、人々を神秘的な道に連れ出し、未知の行き先に向かわせることは、宗教や科学の主流には収まりつかない。

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