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視聴者は「誰」を「傷つけない笑い」と見出したのか

M-1グランプリ2019において、「傷つけない笑い」というキーワードが流布しております。ツッコミの方の言い回しが優しい、相手を傷つかないようなワードでツッコミをしているなど、色々論じられておりました。

が、私、ピンとこなかったのですよ。笑いというものは、ボケる=劣る(割と乱雑な言い回し)を指摘することで起きるものであり、笑ってるのか笑われてるのかはさておき「誰も傷つかない」ということはありえないと。そのうえで、M-1ファイナリストの漫才が誰も傷つけてないわけがないじゃないかと。

しかし、最近あることを指摘されまして。視聴者は何を持って「誰も傷つかない笑い」と無自覚に認識したのか、腑に落ちたのでございます。

ツッコミの役割

何が違ったのか。

「ツッコミの人が【相方を強く叩く】以外のツッコミをすること」

端的に、どつき漫才の組がいなかったことっぽいのです。

漫才においてツッコミの役割とは、「相方のボケに対し、ボケた点をおもしろおかしなワードで指摘するとともに、お客さんに対し【今ボケたよ】という合図を出す」というものです。ここまで言語化する必要はないんですけど。

相方のボケに対し「なんでやねん!」の言葉と同時に相手をぽんと叩く。叩く場所は胸であったり頭であったり、たたきじゃなくて蹴りだったりといろいろなパターンがあるでしょうが、そういう「動きの合図」をする。すごく単純に見えるでしょうが、面白い漫才師はその「合図」のタイミングがものすごく上手。コンマ数秒ずれるだけで、笑いの量は減るのです。もちろん、ツッコミのフレーズによっても適切なタイミングは変わってきますし、何ならお客さんの反応によっても変わってくる。

いつものネタをやってるはずなのに、なんか今日は面白くないと思うことがあったら、それは見てる方の笑いの呼吸(反応)と演者(漫才師)の呼吸がコンマ何秒単位でずれているからです。こういうところは感覚なので、体で覚えるしかない。

ツッコミって、ワードセンスもさることながら、そういう「空気」をいち早く読み取って突っ込むという、判断力と瞬発力が要求される芸でもあるのです。

動きが大きいほうが笑う→ツッコミの過激化

で、漫才(話芸)が舞台上で行われるようになると、お客様との距離が離れてきます。そうすると、「ツッコミの合図」というものがお客様に見えにくくなってくるため、お客様にボケのポイントが伝わりにくくなるという弊害が出てきました。

目の前にお客さんがいる中で行われる漫才ならば、ちょっと相方の肩をぽんとするだけで伝わるのです。

というわけで、どうしたらツッコミが伝わるのかという研究(というなの試行錯誤)が発生します。昭和のはじめから戦後数年くらいの間でしょうか。試行錯誤の中には、ツッコミが竹刀片手に行うなんてものもあったようです。

……竹刀で叩くのか。相方死にません…?

ボケの相方を死なない程度に、かつお客さんにわかりやすく伝わるようなツッコミを追求していった結果生まれた一つが「どつき漫才」という手法です。

どつく。殴る、殴打するという意味。

文字通り、相方を殴るというツッコミを行う漫才です。殴るという動作は必然的にオーバーリアクションを取りやすくなります。これはツッコミだけじゃなく、ボケ側にもメリットが有るのですよ。殴られた後のリアクションという形で続けてボケを出すことができるので。

もちろん、めちゃめちゃ強く叩くとガチで痛がって次のボケが生み出しにくい。かといって優しくどついてもどつくツッコミには見えない。あと、ガチの喧嘩に見えない程度にするのも、どつき漫才の腕の見せ所となるのですが、それはそれとして、どつき漫才がウケたために、どつきというツッコミを起点に進化させた漫才が(特に)TVの世界では流行していくのです。

相方の尻蹴りとか、延髄斬り、ジャンピングチョップとかといった奇抜なツッコミで人気を取ろうと考える漫才師も現れました。特に客入れしないTV等の場合、お笑いの目が肥えたスタッフしか見てる人がいなくなりがちでして、そうすると過激な方向に走りがちなのは心理的にやむを得ないところはあります。

まあ、いくらTVとはいえ、やりすぎはよろしくありません。過激なのは深夜帯でも見られましたが、深夜でも叩かれるときは叩かれる。

過激なツッコミがいじめられっ子のトラウマに

さて、TVでどつき漫才が流行することは、弊害もあります。

それは、子供が真似をすること。

端的に言うと、ツッコミのマネという形のいじめです。困ったことに、子供はマジで「いじめよう」と思ってないのな。TVで流行ってる面白い人のマネとして、相手を殴って笑わそうとするのよな。できれば、殴ったときにリアクションがいい相手に仕掛けたい。ついでにいうと、周囲のウケがいい相手をどつきたい。

いじめられっ子にとっては、ただの地獄です。

そして困ったことに、いじめっ子に当たる方は自覚がないのですよ。「からかってるだけ」とか言う言い訳をすることが多いのですが、あれ、マジらしいんですよ。周囲も笑ってる、俺は笑わせてるだけ。

……一応念の為に言っておきますが、いじめの形はどつき(=殴る)だけではありません。また、TVから影響を受けていない形も多々あります。

そういういじめを受けた子の中には、この手のどつき漫才に対し嫌悪感を抱く方が結構おります。また、どつき漫才を「喧嘩」としか見られない方もおられます。そういう人たちにとって、過激などつき漫才というものは、不快なものにしか見えないようなのよね。

ネタの内容よりも、動きのほうが頭に残りやすいという点においても、どつき漫才は不利になります。どつきはオーバーリアクションになりがちなんでね。あいつ殴ってる→いじめっ子だ!→嫌い!になりがちなのですよ。

漫才とは「立ち話」である

もう一つ、どつき漫才に不愉快を感じる理由として、「漫才は立ち話である体を取る」ところにあります。

コントの場合、芸人さんはあくまで「演者」なので、本人ではないという割り切りができます。しかし、漫才の場合は「本人である」という設定であることが多いため、どうしてもどつきだと「ボケの人かわいそう」になりがちなんですよ。

コント漫才の場合、割と強めなツッコミをしても受け入れられやすいのは、「演技であって本人でない」ところだから。ただし、「コントじゃん。漫才じゃない」ってことで否定派がいるのも、コント漫才の難しいところ。

見た目の偏見が取れるとワードが肝になる

漫才って、コント漫才だろうがキャラ漫才だろうが正統派だろうが、基本は「立ち話」なんですよ。本来は「話芸を楽しむ」ものであって、あくまでツッコミにおけるどつきとかは添え物なはずなんですよ。

そして、喋りの内容だけで見ると、実はそれまでの漫才師と比べて大きく異なるわけではない。それが、見た目の添え物であるどつきに注目が集まった結果、漫才は苦手、怖いという人達が現れる。そういう人たちにとって、今回のM-1グランプリ2019は「新しい漫才」「人を傷つけていない漫才」に見えるんだろうなあと思います。

漫才の内容として、(見せ方や間のとり方、客層とのマッチングなどの問題はあるものの)特に過去の漫才師、M-1ファイナリストと何が違うかというと、そこまで大きな違いはないと思うのです。

それなのに、「人を傷つけない新しい漫才」と言われるのは。

……今の若い人たちに「どつき漫才」が面白さよりも前に恐怖心がたってしまってるからだと思うのです。

漫才のツッコミが傷つけていないのは、あくまで相方の身体。求められるのは、暴力にトラウマを抱える視聴者の心の傷をえぐらずにツッコミを行う技術。


令和のお笑いのキーワードが「傷つけない笑い」なのはそういうことだと思うのですが、ここを正しく理解している(Not傷つけない笑いを見せる)TVマンはどの程度いるものなのか。

バラエティ番組が面白くなるかどうかは、そこにかかっているのでないかと、勝手に思っているところでございます。

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