【感想】宇治の宝蔵展をみてきました

【感想】宇治の宝蔵展をみてきました

京の■■院にて、特別展示 宇■の宝蔵展が行われていたので、今回は博物館レポを書いていきます。

このあいだ、藤氏長者があらたに決まったのに伴って、先月、宇治入りが行われました。宇治入りとは新しい藤氏長者が宇治の■■院にむかい、宝蔵を確認する儀礼ですが、その際、いくつかの歴史学の学会からの強い要請があり、宝蔵の収蔵品の調査・研究に繋がり、この展示も実現したそうです。

わたしが展示を見に行った日は雨が降っていました。

■■院の池には宇治殿 藤原頼通が龍の姿になって宝蔵を守っているという伝承が古来つたわっています。宝蔵は王権につながる宝物が納められており、龍じしん、王権を守る存在だったのでしょう。
実際、■■院の池から、龍の骨が出てきており、この伝承には一定の根拠があることが最近の研究で判明しています。『太平記』によれば、建武三年、新田義貞が■■院を焼いた際、宝蔵も焼けてしまったといいます。この宝蔵の焼亡は、王権の衰微へ大きく繋がるもので、おそらくこのとき、龍の力も失われたものでしょう。


宇治の宝蔵内で行われる展示はどれも、めったに見れないものばかりでした。なかでも印象に残ったものを紹介していきます。本展示は写真撮影が禁止されていたので、文字のみとなっています。

中にはいって、まず人々の目を惹いていたのは『源氏物語』「雲隠」でした。古い説として『源氏物語』は五十四帖だと言われていましたが、今回の調査で、中世以来の六十帖説が史実であるとされました。
六十帖のあまりの六帖「雲隠」は、存在しないからこそ、『源氏物語』をそれらしくしていたのに、見つかってしまってからは、どこかあっけらかんとした感情が常にこころの端にあります。

ついで目についたのは山上憶良の歌集『類聚歌林』です。中世にはすでに「宇治の宝蔵に納められている」と見えつつ、見たことある人がいなかったこの歌集が、今回の調査で実際に宝蔵にあることが確認されたそうです。それから『天地三国之鍛冶之惣系図歴然帳』というタイトルの長いものも印象的でした。神々にはじまり、代々の天皇、院、唐天竺の人や神仙にいたるまで、鍛冶にまつわる歴史をまとめています。この本はいちど、宇治の宝蔵から出て、写されたものが後に再び納められたものだそうです。
その他にも聖徳太子の『上宮記』や円仁の『止観記』、唐の『李嘉祐集』など、種々の貴重な典籍は目を見張るものでした。

書籍の展示を抜けると、うつくしい楽器の数々が並んでいました。琵琶には、元興寺、渭橋、笛には水竜や葉二、篳篥には皮古丸と、すでに消失したはずの、いわゆる名物が所狭しと並んでいたのは圧巻でした。

当然ながら、宝蔵には仏教に関するものも多く展示されておりました。聖徳太子が生まれた時、手のひらに収めていた舎利や2つの青蓮華(後一条院のころ、源信の遷化の際、胸のあいだに現れたものと、天福二年、紀四郎奉成というものが、粉河観音から下されたものといいます)はたくさんの人が集まって、鑑賞していました。ひときわ珍しかったのは三着の袈裟でした。それぞれ戒日王が玄奘三蔵に与えた袈裟、菩提僊那の袈裟、行基の袈裟と、由緒は日本に留まらず遥か天竺から伝来してきたものも宝蔵に納められていたようです。

展示の最奥では、一層幻想的な品々が並べられています。
天照大神が須佐之男と戦われたときに、須佐之男が大地に立てた剣は、特徴的な形をしていました。「八つ歯の剣」というそうで、名前の通り、剣の先が八つに分かれています。天照大神は野に立てられた剣(その数は一千であったそうです)を蹴散らしたといい、これが枕詞「ちはやぶる」の語源になったとされていますが、少し出来すぎているような気もしました。

その向かいの展示が今回の最後の展示にして最大のめだまでした。坂上田村麻呂に退治された大嶽丸の首の骨、源頼光とその四天王、それから藤原保昌に退治された酒呑童子の首の骨、三浦介、上総介に退治された玉藻の前の骨が並んで展示されていました。これらは全て科学調査がなされたことで、いずれの事件も史実であったことが判明し、定説が大きく書き換えられたと解説にはありました。
酒呑童子の骨は、きわだって言い知れぬ恐ろしさを感じさせられました。近世には、鬼の骨を創作し、見世物とすることか流行りましたが、そこで飾られたような骨とはまったく異なる、生々しい雰囲気がそこには漂っていました。

今回の宝蔵の展示を鑑賞しているうちに、まるでどこにもいない感覚に陥りました。展示品はどこかにあって、どこにもないようなものばかりなのに、いずれも実際に目の前に存在しており、気持ち悪いほどの感動を覚え、頭から離れません。
終了まで、まだ期間がありますので、ぜひぜひ、みなさん、本展示の魅力にとらわれにいってみてください。

令□二十一年 正月 一日、寅の一つ 記之了、

這本自宇治殿経蔵出来候也、而経蔵已焼亡畢、如何也由緒有之歟不知、
(すべてフィクションです)
【参考文献】
田中貴子『外法と愛法の中世』(2006年 平凡社)
深沢徹「橋のたもとのモノガタリ―『宇治捨遺物語』序文と宇治の「宝蔵伝説」」(『日本史研究』364 1992年)

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