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衝撃の告白

「さよなら」
 そう言ったあいつの声の余韻がいまだに耳に残っている。当の本人はとっくに立ち去り、俺は、ジリジリと照りつける太陽と、アスファルトが反射するその熱に、両面からこんがり焼かれながら、汗を拭うことも忘れてぼんやりと立ち尽くしている。奇妙にはしゃいだ若いあんちゃんたちや、それぞれ甚平と浴衣を身に纏ったカップルなどが、時々邪魔そうに顔を顰めながら俺を避けていくのが、やけに遠くに感じられる。どこからか聞こえてくる、横断歩道の間の抜けた通りゃんせのメロディ。車のクラクション。電気量販店の店頭から漏れるCMソング。道ゆく人の、声、声、声。そんな全てが意識の上をなんのフックもないまま通り抜けていく。
 つまるところ、たった今さっき、俺は恋人に振られたのだ。いや元恋人というべきか。しかし俺を振るその瞬間まで、彼女は俺の恋人という属性を失ってはいなかったはずなのだから、別れを告げた時点ではまだ恋人だったというのが正しいのではないか。それとも彼女にとっては、その決意をした時点ですでに自分は「恋人」ではなかったのだろうか。別れるまでは恋人だったとして、ならば厳密にはどの時点が境目なのか。好きな人ができた、と告げた時か。さよならというために口を開いた時か。「さ」を言った時はどうだ。「よ」は、「な」は。「さよなら」と言い終わるまでは、彼女は俺の恋人だったのだろうか。
 そんな恐ろしくどうでもいい理屈が自動的に脳内に展開されていくが、それすらもどこか遠い。
 俺は彼女に投げかけられた別れの言葉に衝撃を受けて立ちすくんでいた、と、一言で言えば、そういう話。
 そう、衝撃だった。二〇年の生涯の中で、恋人に振られるのはこれが四度目だ。中学で一回、高校で二回、そして大学に入ってから三年付き合った彼女に、たった今。それが多いのか少ないのかよくわからないが、ただこれだけは言える。この衝撃は何度繰り返したって慣れるもんじゃない。二回目も三回目もそして今回も、初めての時となんら変わることのない新鮮な驚きとショックと悲しみと苛立ちと、自分への不信感と、彼女のこの先の恋人たちへの嫉妬と憎悪が、怒涛のように押し寄せてきてこれまでの俺の全てを流し去っていこうとする。そして最後に残るのは、それだけのことがあっても、「自分」は決して失われたりはせず、したがってその自分が感じている絶望と悲哀もまた消え去ってなどくれないのだという、一種の諦め。
 そこまで辿り着いて、ようやく俺は我に帰って歩き出す。さてこれからどうしようか、うっすらそんなことを考える。本当なら今日は彼女と映画を見に行き、軽くお茶をしてから、夜に近くの海岸で開催される花火大会を見にいく予定だったのだが、まさか待ち合わせ場所から移動する前に失恋するとは思わなかった。
 映画、行くか。
 恋愛映画なら、そんな発想にはならなかったかもしれない。だが行く予定だったのはシリーズもののアクション映画の新作。そもそも彼女と僕が最初に意気投合して付き合うきっかけを作ったシリーズでもあり、まあそういう意味じゃ複雑な気持ちもないではなかったが、もともと好きな映画だ、こんなことで見るのをやめるのもなんだか負けたような気がして癪に触った。一方で、別にデートしにきたんじゃないというフリをして、振られたという事実を無効にしたいという感情も働いた。
 場所だって近いし、それにせっかく二人分席を予約してあるんだ、勿体無いじゃないか。
 そんな言い訳ともなんともつかぬことを頭の中で呟きながら、まだ新しいビルの匂いのするシネコンに辿り着く。無駄にチケットを二枚発券し、人波を縫って入場口に向かっていると、不意に後ろから声をかけられた。
「やっぱり、大山!」
「え……磯村、さん?」
 振り返るとそこには、同じゼミの女子、磯村さんが、Tシャツとジーンズというラフな格好でそこに立っていた。頭頂部が黒くなり始めた茶色いショートカットに、ナチュラルメイク。彼女は気さくに笑いながら近づいてくる。
「何よ、一人? 彼女は?」
「あー……」
 なんと答えたらいいものか、言い淀んでしまう。込み入ったことを話すような間柄でもない。俺の沈黙をどうとったのか、彼女はあっさり次の質問に移った。
「何観るの?」
「えっと、これ」
 発券したばかりのチケットをかざして見せる。
「あ、一緒じゃん」
「そうなの?」
 そのとき、ふっと思ってしまった。無駄にするのも、勿体無いしな。
「あのさ、チケット、とってある?」
「いや、これから並ぶとこ。次の回は無理だねー」
「じゃあさ」
 俺は二枚のチケットを指先でずらして見せる。
「よかったら、一緒に観る? 連れが来れなくなって、さ」
「え、いいの?」
「無駄にしたらもったいないっしょ」
「そっか……じゃ、あとでお金……」
「いいよいいよ。会わなきゃただ無駄になっただけなんだし」
「そんなわけには……」
 こうして、俺と磯村さんの奇妙な関係は始まった。

 その日はそのまま流れでカフェでお茶などして映画の感想を語り合った後、飯を食って帰ろうかということになり、居酒屋へ。失恋のショックとなれない相手といる緊張が酒を飲むペースを早め、俺は少しばかり呂律の回らなくなった口で、実は彼女に振られたばかりであることを白状した。
「そっか、それで。いや、まあ、元気出せ!」
「なんだよ磯村さん代わりに慰めてくれんのかよ」
「ばか、そういうんじゃないって。でもほら、あんたいいやつっぽいし。友達その一としてなら、元気付けるくらいは」
「優しいなあ。いいやつは磯村さんじゃん」
「ふふん。感謝したまえ」
 などという会話をした後、ホテルにしけ込むどころか磯村さんを送ることすらせず一人で自室に帰って床に倒れ込んだ俺は、這うようにしてトイレに行ってしこたま吐いたり、水を求めて手を台所に伸ばしたまま眠ってしまったり、そんなことを何度か繰り返した後、記憶にある限り二番目くらいの最悪の夜明けを迎えて、頭痛の中もう彼女は俺の元をさったのだということを思い出してさめざめと泣いたりしたわけなのだが。
 とにかくその日を境に、俺は磯村さんとよく話をするようになり、時々一緒に飯を食ったり飲みに行ったりするようになった。折に触れて磯村さんは俺に「そういうんじゃない」ことを告げたし、俺もなんとなくそういうんじゃないんだろうと思うことに慣れていった。だが、だからといって、いつかは、という期待が完全に消えたわけでもなく。
 恋愛感情があったかどうかはわからない。彼女に振られた傷さえ、まだ癒えたわけではなかったし。けれども、この関係がいつか恋愛に発展したら、そんな夢想のような曖昧な願望は、終始俺の中にあり続けていた。
「いい加減新しい彼女でもつくりゃいいのに。あたしなんかとつるんでても不毛じゃん」
 ある日、磯村さんはそんな話をした。珍しく酒の入らない夕飯の席。いや、正確には俺の方は生ビールを注文して半分ほど開けていたんだけど、とにかくそこは居酒屋ではなく定食屋だった。
「そんな。今日だって誘ってきたの磯村さんじゃん」
「そうだけどさ。あたしじゃなく、大山がどうするかって話ししてるのよ」
「……いいけどさ」
 俺は生姜焼きに添えられたキャベツをつっつく。
「新しい彼女って言われても。磯村さんはその気ないわけでしょ」
「うん、ないね。その線はない」
「……きっぱりいうよなあ、もう慣れたけど」
「だからそんなこといつまでも言ってないでさ、誰かいないの、気になる子とか。彼女と別れてもうそろそろ半年でしょ」
「半年は言い過ぎ。あれが夏休み前で、今まだ一〇月だよ」
 なんてことを言いながらも、ふっと、頭に浮んだ顔がある。
「まあ、いなくはない、けど」
 ぼそりとつぶやく。
「え? まじで? 誰々誰? 教えてよ!」
「いや、でもまだはっきり好きとかじゃ」
「いいからいいから教えろ教えろ」
「いやだよ恥ずかしい」
「えーなんでー」
「いいから飯食え、ほら、冷めるぞ」

 そんなことがあったせいか、俺はその
「ちょっと頭に浮かんだ」女子のことを、以前よりも強く意識するようになっていった。
 かわいいな、とか、なんとなく好ましい、とか、見かけるとちょっとはなやいだ気持ちになる、とか。そんなささいな感情が、急にクローズアップされ、特別なものに変化し始めた。
 飯山美梨亜、というゼミの後輩がその相手。当然磯村さんとも共通の知り合いで、言いづらかったのはだからというのもあった。今どき珍しい黒いロングヘアーと、華美ではないがさりげなくオシャレ感のあるワンピースなどを着ていることが多い、ふんわりした雰囲気の女子で、実を言えば初めて見かけた時から、モテるだろうな、くらいの印象は持っていた。あいつとの付き合いは順調だったし、個人的に関心を寄せるなんてことはなかったが、その彼女がもういないんだと思うと、改めて意識せずにはいられない相手だった。
 戸惑いもあった、まだ彼女に振られて数ヶ月で、磯村さんとの間にだってそういう気持ちが皆無とは言い難い。この上また他の女の子を好きになるなんて、自分はどこまで軽いやつなんだと思った。
 今まではそんなことはなかったのだ。失恋の衝撃から立ち直り別の子をいいなと思うまでにはもう少し時間がかかっていた。同時に二人を、なんてこともなかった。
 振られた当のその日に磯村さんと会ってそのまま仲良くなってしまい、その上最初からあまりにもきっぱりそういう関係を拒まれた、というのが大きかったのかもしれない。
 曖昧な気持ちのまま、進むも引くもならず、それでも徐々に積極的に、俺は飯山さんに話しかけるようになっていった。テスト前やゼミ旅行でもないのに、日常で話すことなどほとんどない。それでも挨拶の頻度をほんの少し増やし、少人数の授業で「今日どこからだっけ」なんてことを聞いたりしているうちに、認知されているかどうかも怪しかったのが、向こうでも目が合うと笑って挨拶してくれるくらいにはなってきた。
 だがそこまできてなお、自分が彼女を好きなんだとはっきり思うことはできずにいた。決めてしまうのが、怖かったのかもしれない。
 そんな中開催されたゼミの飲み会。
 俺は気がつくと、さりげなく飯山さんの隣に座るように動いていた。
「せんぱいって、ちょっと怖い人かと思ってました」
 程よく酒が進んだあと、飯山さんは言った。
「え、そう? なんで」
「なんででしょう? いつも厳しい顔してるし……あと、授業中結構鋭い質問するからかな」
「え、あ、そうかな」
 俺は頬のあたりをほぐしてみせる。彼女はくすくすと笑った。
「今は怖くないですよ。授業で真剣なのも、かっこいいと思います」
 言われ慣れない言葉に思わず照れて言葉を失ってしまう。
「そう? いや、夢中でやってるだけだけど」
「それがかっこいいんじゃないですか。こないだのセクシャルマイノリティの話の時なんて、めちゃくちゃいいこと言ってたし」
「そんなことは……」
 俺が言い淀んでいると、飯山さんは一瞬目を伏せた。と思うと、すぐに何か決心したように顔を上げる。
「せんぱい、このあと……ちょっと歩きませんか。相談したいことがあって」
「え……」
 なんとなく視線で磯村さんを探してしまう。少し離れたところで、院生を含む4人ばかりのグループで爆笑している姿が目にはいった。
「いい、けど」
 ごくり、と喉がなるのが飯山さんに聞こえていないといいと思った。

 街の喧騒をちょっと外れた広いだけの道路を、俺たちは二人で歩いていた。彼女を駅まで送った後、そのまま歩いて帰るつもりで選んだルートだ。もちろん相談があるという彼女にも配慮して、静かな道を選んだつもりだ。車通りもまばらで、人はさらに少ない。街灯は途切れず周囲を照らしていて、暗すぎはしないのに、それがかえって寂しさを際立たせている。そうそうガラの悪い連中がいるような土地柄でもないが、例えば飯山さんがこの時間に一人で歩くと言ったら止めるだろう、そんな通りだ。
 飯山さんは、しばらく、何も話さなかった。時々今日の飲み会での教授の様子や、今後の授業などについて話をするが、本題がそこにないのは明白で、すぐに口をつぐんでしまう。
 こちらから水を向けるべきなのか、そう思い始めた時、飯山さんはきっぱりした口調で話し出した。
「あのっ。相談があって」
「ああ、うん」
 俺が頷くと、彼女はもう一度、一瞬ためらう様子を見せた。が、すぐにまた口を開いた。
「実はあたし……好きな人がいて」
 どきり、と心臓が跳ねあがった。
 今までそれほど込み入った話を意したことのない異性に、いきなり恋愛の相談など、するものだろうか。
 まさかこれは、フィクションの世界で時々見たことのある、「それは俺自身だ」というオチでは……
 だが続く言葉は、そんな俺の甘々な妄想を、一瞬で打ち砕いた。
「それ、女の人なんです」
 頭の中が真っ白になった。
「ええと、つまり、そういう」
「はい、昔からそうなんです。女の子しか、好きになれなくて」
「そうか……うん、そうか、まあそういうことはさ、あるよな、うん」
 内心を隠して言う。なんと自分に都合のいい妄想を繰り広げていたのか。ショックというより恥ずかしい。
「先輩の、この前の……先生にLGBTQのことで噛みついてるの見て……先輩になら、相談できるな、と思って」
「ああ、なるほど、そういうこと」
 身勝手な幻想に囚われていた自分が彼女の信頼に値するとは思えず、ますます恥ずかしくなる。
 飯山さんはそんな俺の様子には気がつく風もなく、先を続けた。
「それと、せんぱい、最近磯村先輩とよく喋ってるじゃないですか、それで」
「え、ああ、うん、そうだね、ちょっと色々あって……て、それがどういう」
「磯村先輩なんです。あたしの好きな人」
「え……そうなの?」
「はい。でも……先輩なら聞いてるかもしれないけど、磯村先輩、たぶん、その……助教と……」
「えっ?」
 もう一度、頭の中が漂白される。
 いや待て待て待て、助教って、あの助教? 既婚者だよな?
「あ、聞いてませんでした? 一部で噂になってもいるんですけど、それだけじゃなくて、実は、あたし、見ちゃったことがあって……教室で、二人が、その……でも、噂があるからって、そんなこと、みんなには言えないじゃないですか。そっちのことも、大山先輩なら何か聞いてるかなって。だから、失恋の話も聞いてもらえるかなって、そう思ったんですけど……迷惑でしたか?」
 俺は凍りついた表情筋を苦労して再起動する。
「いや、迷惑なんてことないよ。ていうかそれは……言えないねえ、確かに。辛かったね」
 いい先輩の演技に、俺は内心の動揺を包み隠した。
 
 つまり俺は今夜二人に同時に振られたのか。
 途中で買ったレモンサワーで一人飲み直しながら、俺は思った。
 いや、振られた、のか?
 振られる、っていうほど、俺は二人のこと、好きだったんだっけ。
 そうだよ、別にそこまでじゃなかったじゃないか。ただ、もしそうなったらちょっと嬉しいかなって程度で。
 いやしかしだったらこの虚しさはなんだ。
 飯山さんの言葉を聞いた時に俺を襲った衝撃はなんだ。
「なんてこった。まともに振られることもできんのか、俺は」
 つぶやいて、レモンサワーをぐびぐび。
 磯村さんに何かメッセージを送ろうか、そう思ったけど、やめておいた。返事が来なかったら、助教と一緒なんじゃないかと勘繰ってしまいそうだし、それに、こんな酔っ払った状態では、自分が何を言ってしまうかわからないではないか。
 いい先輩。仲のいい友達。そんな立場すら、失いたくはなかった。

 

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