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過去の話vol.19 シンママ、小学生を育てる

子供が小学校へ入学するのを機会に
実家のそばに引っ越しをしました。

30年前には学童保育などもなく、
午前中に帰ってくる低学年の子を
1人でお留守番をさせられないと
思ったからです。

私の両親は、中々のロックな夫婦で、
心配な面もありましたが、
頼れる所も他になく、
保育園時代から時々見てもらって
同じマンションの同じ年の子供達とも
友達になっていたので、
万が一、お泊まりになったとしても、
お友達と一緒に学校へ行く事が出来る、
そんな事も考慮しての事でした。

私と言えば、仕事に疲れvol.13に書いた通り、
辞めたいとこぼした時、B部長の計らいで

新人さんのマナー研修や試験・資格取得の
お勉強を教えたり、営業の仕方を教える
言わば教育担当部署に配置換えになりました。

新しい事を学ぶのも新鮮で
人に何かをわかりやすく教える工夫など
私なりに楽しめる仕事になり、
気持ちも随分と切り替えられる様になりました。

“もう少しやっていけそう”
誰かの為に働けると言う事も
私には向いていました。

それでも、最低限の自分の営業成果を
コンスタントに用意する
それはなくなりませんでしたので、
仕事が終わってからの募集活動、
当然、月に数回の残業も減りません。

私が使っていた実家の部屋を
息子の机やベットや諸々用意して、
息子が、自宅でも実家でも生活ができ、
楽しく暮らせる様に工夫をしました。

地域で人気のスポーツチームにも入れました。
私は保護者として平日の当番が出来ない分、
土日の遠征や大会の車出しは進んでこなし、

月に一度、チームメイト十数人を招き
お食事会やお泊まり会を自宅で
楽しみました。今でも良い思い出です。  

唯一、寂しいと思った事があって・・
息子にクワガタを取りに行きたいと言われ
捕り方も罠の仕掛け方も知らず、
何より真夜中に森なんて行けるはずもなく
『ご、ごめん・・
他はなんでもやってあげるから、
それだけは、難しい(•̀ω•́ ‧̣̥̇)』
断るのが切なかったです。

( 後日、友人のお父さんが
連れて行ってくれました。幸せすぎる!)

私は特に男の子には、
体と頭は両方使う文武両道が
良いと思っていました。

持て余す体力をきちんと発散させる
必要があるからです。

なので、スポーツチームをやらせながら、
小学4年生には塾に行かせました。

ついて見ていてあげられない分、
“勉強するのが当たり前の日常”を
習慣化させたかったのです。 

これは正解です。少し早かったですが、
5年6年になると仲のいい子たちも
塾で自分の学力レベルを
意識し始めたのですから。

その頃、私は何の仕事をしたいかで、
進む進学先と学力レベル、福利厚生や
初任給・退職金など、職業別に
リアルに説明しました。
その職業になる為の資格についても・・

同様に、選ぶ側の立場として
出身校の偏差値、最終学歴、トイックなど
募集する側にも選ぶラインがある事も伝え、

『貴方は選ぶ側になりたいのなら
最終学歴含む履歴書と言う武器を作る事』

『何になりたいか決まっているなら
それに必要な学校や資格取得を目指す事』
そんな話を随分していったと思います。

彼はまだなりたい職業がなかったので、
それならとりあえず北海道での
進学高は目指して・・
あ!家庭の環境で公立のね!笑
と言う事で話していました。

6年生の卒業する頃には比較的、
お勉強もスポーツも程々に出来る子に
育っていましたが、

女の子に追いかけられる時期があり、
ちょっと苦手になってしまいました。

思春期と言うやつですね・・
それでも、この辺りまでは
健全に育った様に感じていました。

勿論、子育てって一筋縄にはいかないですよね。

私は、今でも思っていますが、

自分の息子が亡くなる瞬間に
“あぁ、良い人生だったな”

そう思って貰えた時、初めて
子育てが成功したんだなと思うと
思っています。

なので、順番で言うと
それを見届けられはしないのだけど(*´-`)

今日も読んで頂き有難うございました。
昔話も現在の婚活もまだまだ続きます。
良かったら読んで下さいね♪

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