学校教育の「寺子屋」化

今月3回と先月3回、人数限定で「ポストコロナ社会における学校教育」と題してZOOMによるオンライン学習会に参加していました。

その中で、休業後の学校の授業の在り方や学級経営などの在り方を巡りグループセッションを行ったりしました。

その中で、私がふと思ったのは、ポストコロナの学校教育は江戸時代の「寺子屋」に回帰していくのではないか、ということです。

学校制度や社会情勢は違えども、コロナの影響で学習の内容は総合的な学習の時間、生活科を中心とした教科横断型の学習にならざるを得なくなり、いわゆる「読み・書き・そろばん」の基本的な学習は維持しつつも、他教科との連携・関連などによって、「調べ学習」や「グループワーク」、児童生徒同士の学び合いなどはほぼ「寺子屋」に近いものがあると思いました。

現在のように一斉授業の形式になったのは明治維新以降、西洋の教育方法が輸入されてからでした。それ以前は小学校という制度すらなく、明治5年の学制発布以降、義務教育制度が成立するまで、幾多の困難を経て現在の教育システムの原型ができあがりました。

日本の教育水準はすでに奈良時代の万葉集編纂の頃から非常に高く、上は天皇から、下は名も無き一般庶民に至るまで皆そろって和歌を詠むことができ、それまで使っていた漢字をくずしてひらがなやカタカナを発明し、日本語の表現方法を豊かにしました。弘法大師空海は「綜芸種智院」を作り、一般庶民にも教育を施し、どのような身分の子息にも教育の機会がすでに与えられていました。

江戸時代になると、寺子屋が急速に普及し、武家の子息が通う「藩校」とともに、江戸時代を通じて高い教育水準を維持し、識字率はほぼ100%だったということは数々の史料から分かっています。

そう考えると、明治維新以降平成に至るまでの西洋式教育方法の方がイレギュラーだったともいえ、それがさまざまな弊害を起こしていたことは否めません。

今回令和2年の学習指導要領改訂によって、「主体的・対話的で深い学び」(アクティブ・ラーニング)が提唱されたのは、教科横断型の学習方法が子供たちにとってはより積極的に学びに向かう力をつけることになり、知識・技能を深め、思考力・判断力・表現力を身に付けることにつながることになり、今まで以上に学習効果が高まっていくことが期待されます。

この手法はまさに「寺子屋」そのもので、指導者が何でもかんでも教授しなければいけないと考える必要はなく、子供たちが勝手に学び、伸びていくことが可能であることを、図らずもこのコロナ禍がこれからの学校教育の在り方にヒントを与えたのではないかと思います。

子供たちは教師が思っている以上にICT技術の飲み込みが早いです。インターネットツールやSNSは教えなくてもすでに使いこなしているのが何よりの証拠であり、これまでの紙ベースによる資料に頼らなくても、インターネット環境があって、つながればいつでも検索をかけて調べることができます。しかしそれでもSNSを使うことによって生じる問題(いじめなど)は教師が問題提起し、解決しなければいけないですが、特に間違った使い方をしなければ便利なツールです。

勉強会の中で、「私たちは20世紀型の教育を受けてきた教師がほとんどだが、子供たちはすでに21世紀型の教育を受けて実践している」という話が出ていました。まさにそのとおりで、教師がこれまでの教育方法であらねばならぬという考えを改め、アップデートしていかなければ子供たちに置いて行かれるばかりか、教師はいらない、AIに取って代わられるという危機感を持たなければいけないと思いました。

まあ、教師が不要になるということはまったくありません。AIの時代だからといって、AIがすべてのことができるかと言ったらそんなことはなく、人間と人間の感情の交流、気持ちを代理するということはAIにはできません。教師は常に「学び続ける存在」であらねばならない、子供たちとともに学ばなければいけないという自覚を持たなければいけないと思います。

私は、学校教育は「寺子屋」形式に戻るべきだと考えています。それは何も教師が楽するようにというわけではありませんし、働き方改革の一環としてそうすべきというわけでもありません。寺子屋があった江戸時代の教育が極めて高いレベルで行われていたという歴史的事実から考えると、こうした方法も大いにありだということです。

また私は、子供たちの可能性を信じたいと思っています。言わなければやらない子供に育てているのは、大人が過干渉になりすぎていて、「指示待ち人間」を量産していることにそろそろ気付いた方がいいです。教師が何か言わなくても子供たちが自分たちで考えて主体的に動いてくれることを期待したいし、そういう子供の姿を見てみたいと思っています。

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