皇室の在り方が改めて問われる

秋篠宮眞子内親王殿下の結婚問題が、皇室の存在意義を問われる事態にまで発展した。
ここまで問題がこじれたのは、他ならぬ小室圭氏の母親の金銭トラブルに端を発した小室圭氏の人間性に著しい疑念を生じさせたことからであり、週刊誌においても皇嗣大夫の発言からも明らかになった、本来民間のトラブルとはまったく離れてしかるべき立場にあるはずの皇族たる眞子内親王殿下がこの問題に介入したことが大きい。
このことの重大さは、国民にとっては大きなショックであり、皇室の存在、そして皇室と国民の絆に傷をつけることになった。
これは内親王お一人の問題ではなく、秋篠宮家、宮内庁にも大きな責任があると言わざるを得ない。内親王の行為を強く諌める者が誰一人としていなかったのか。情けない、驚愕だと言うばかりの宮内庁は何をしていたのか。本来皇室をお守りするはずの役所は何も役に立っていない。それこそ情けない。

戦後のGHQによる改革により、皇室が大幅に縮小され、傅育官と呼ばれる教育係がいなくなった。皇族にも当然に民主的な権利があると教えられてきた。その結果がこれだと考えると、当然の帰結だと感じる。

皇室だけではない。日本国民全体が、日本国、そして日本国民としての誇りを持てない、骨抜きにされた教育を受けてきたのだから、こうなってしまう結果になるのは分かる。政治の世界も同じだ。今や私利私欲、権力闘争に明け暮れ、公のために身を粉にして働くという気骨ある雰囲気が美徳とされた時代はとうの昔に失われた。


国民と皇室を切り離し、日本という国の形を変えようとしたGHQの思惑は図らずも成功したとも言えよう。
皇位継承者であるはずの皇嗣殿下は天皇陛下のような「帝王学」をまともに受けておられない。父、上皇陛下の教育に問題はなかったのかと問われても仕方がない。
宮内庁にも、民主的な教育、皇室の重要性を知る者が少なくなったことも原因かとも思う。

これまで皇室は、長い歴史の中で、どんなに皇室が疲弊しても、国家国民のために祈り、民の幸せを願われた。その根本姿勢が国民の信頼を得て存続し得たといえる。しかし、皇室が本当に今回の問題のように、自分の幸せばかりを追求し、国民の幸せを願わなくなったら、皇室とは何なのかと思われても仕方が無いのである。

しかし、これは皇室の本質だけが問われる問題ではない。日本国・日本国民の「覚悟」が試される問題であると私は考える。間違いなく、我が国は皇室があって存在し得た。その時代によって多くの国難に遭っても乗り越えることができたのは、皇室の存在があったからだけではなく、皇室が求心力を発揮して国民が一致団結できたからである。

戦後、日本の強靱な忍耐力、団結すると恐ろしい力を発揮することを恐れたアメリカはじめ欧米諸国が日本の牙を抜くために皇室を民主化し、教育を大きく変えた。結果、多くの日本人は国のこと、国を守ることを真剣に考えることができなくなった。弱々しくなった。

しかし、最近それではいけないと思う国民が増え始めていることを感じる。皇室に多くを求めるのは、心情としては酷なことかもしれない。最初に話を戻すが、女性皇族が婚姻することひとつとっても、そのお相手が内親王や皇室の姻戚に加わることに激しい拒否感を示すのも、畏れ多くも皇室にはこうあってほしいという純粋な国民の願いでもある。それは被災地行幸啓などにより国民の心に寄り添い、励ましてくださる存在と思っているからである。

内親王の行動がその国民の思いに応えず「私」を優先されるようであればそれは国民の信頼を裏切るものであり、看過できない問題である。信用・信頼を築くのは大変な労力・努力がいる。皇室は長い年月を経て「祈り」という行為を通して国民との信頼を築き上げ、絆を深め、団結力をつけてきた。しかし、信頼というものは一瞬のうちに壊れるもろさもある。壊れたら取り戻すことはほぼ不可能である。この場合、「皇室不要論」まで出てくるようになったら皇室は令和の御代で本当に終わってしまう。一国民としてそんなことになって欲しくない。だから、皇室には大変申し訳ないが、厳しい批判を敢えてしなければならないのである。

国民の側にも、これまでの長い日本の歴史の中で培ってきた純粋かつ勤勉な国民性を忘れて悪しき方向に流れるのを止めなければならない。そのためには教育は必要である。何も皇国史観に基づいて戦争に進んで参加できるような国にすることではない。よく勘違いされるところだが、国家を守るということは、すなわち国民の生命や財産を守ることになり、そのために何をすべきかは容易に考えられるはずだ。

最初の話にまた戻すが、眞子内親王殿下にはこのことをよくよく考えられ、小室圭氏の人間性をよく見て判断し、「私」よりも「公」のためによくよく考えられよ、と強く申し上げたい。


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