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教育勅語渙発131年

本日10月30日は、明治天皇が「教育ニ関スル勅語(教育勅語)」を渙発されてから131年目になる。明治天皇が明治維新以降の急激な西洋化によって日本人の古き良き伝統文化、気風が頽廃していくことを憂えて、日本的道徳観の立て直しを図ろうと、御自身の考えを述べられたものである。

朕 惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ
我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス
爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及 ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ徳器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ
是ノ如キハ獨リ朕 カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン
斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ俱ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス
朕 爾臣民ト俱ニ拳々服膺シテ咸其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ
明治二十三年十月三十日 御名御璽
<教育勅語の口語文訳>
 私は、私達の祖先が、遠大な理想のもとに、道義国家の実現をめざして、日本の国をおはじめになったものと信じます。そして、国民は忠孝両全の道を全うして、全国民が心を合わせて努力した結果、今日に至るまで、見事な成果をあげて参りましたことは、もとより日本のすぐれた国柄の賜物といわねばなりませんが、私は教育の根本もまた、道義立国の達成にあると信じます。
 国民の皆さんは、子は親に孝養を尽くし、兄弟・姉妹はたがいに力を合わせて助け合い、夫婦は仲むつまじく解け合い、友人は胸襟を開いて信じあい、そして自分の言動をつつしみ、すべての人々に愛の手をさしのべ、学問を怠らず、職業に専念し、知識を養い、人格をみがき、さらに進んで、社会公共のために貢献し、また、法律や、秩序を守ることは勿論のこと、非常事態の発生の場合は、真心をささげて、国の平和と安全に奉仕しなければなりません。そして、これらのことは、善良な国民としての当然のつとめであるばかりでなく、また、私達の祖先が、今日まで身をもって示し残された伝統的美風を、更にいっそう明らかにすることでもあります。
 このような国民の歩むべき道は、祖先の教訓として、私達子孫の守らなければならないところであると共に、このおしえは、昔も今も変わらぬ正しい道であり、また日本ばかりでなく、外国で行っても、まちがいのない道でありますから、私もまた国民の皆さんとともに、祖父の教えを胸に抱いて、立派な日本人となるように、心から念願するものであります。       -国民道徳協会訳文による-

 教育勅語に書かれている「十二の徳」は、簡単に並べると以下のようになる。

1【孝行】……親孝行をしましょう。

2【友愛】……兄弟、姉妹は仲良くしましょう。

3【夫婦の和】……夫婦は仲良くしましょう。

4【朋友の信】……友達は互いに信じあって付き合いましょう。

5【謙遜】……言動を慎みましょう。

6【博愛】……広く、すべての人に愛の手を差し伸べましょう。

7【修学習業】……勉学に励み、手に職をつけましょう。

8【智能啓発】……智徳を養い、自分の才能を伸ばすことに努めましょう。

9【徳器成就】……人格の向上に努めましょう。

10【公益世務】……世の人々や社会のためになる仕事に励みましょう。

11【遵法】……法律や規則を守り、社会の秩序を守りましょう。

12【義勇】……正しい勇気をもって、国のために真心を尽くしましょう。

 これらはいずれも、古くから日本人が大切にしてきた道徳的価値観であり、生き方在り方であり、古今東西決して誤りのない、普遍的な価値観であると考える。

 教育勅語が渙発されるに至った経緯をたどってみることにする。

明治維新以降、文明開化とともに「富国強兵」に基づき、急激に日本の近代化が進む。20年の間に近代国家として国家の形が整えられていく過程で、教育の近代化も進んだ。

明治元年 五箇条の御誓文

明治4年 大学廃止、文部省設置

明治5年 学制発布(6歳以上の子供に義務教育)、学事奨励に関する被仰出書公布

明治10年 西南戦争

明治12年 (自由)教育令公布、教学聖旨発布

明治13年 (改正)教育令公布

明治14年 国会開設の勅諭(明治23年までの開設を約束)

明治15年 幼学綱要を下賜

明治16年 教科書採択認可制度の実施

明治18年 太政官制廃止、内閣制度創設

明治19年 中学校令・師範学校令・帝国大学令公布

明治22年 大日本帝国憲法発布

明治23年 小学校令公布、教育ニ関スル勅語(教育勅語)渙発

明治35年 教科書疑獄事件(教科書会社の贈収賄事件)

明治36年 教科書を国定制に(修身・日本歴史・地理・国語はこれ以前から国定になっていた。明治43年までにはすべての教科の教科書は国定となった)

明治40年 義務教育を6年に延長

 教育勅語渙発に至るまで、さまざまな教育観の対立が生じた。特に、「西洋に学び、これまでの日本の在り方を改めなければならない」という風潮が明治4年の「岩倉使節団」の派遣以降強くなっていく。欧米との国力の差を見せつけられた岩倉具視らが、日本国内においても産業を興し、「殖産興業・富国強兵」の実践とそのための諸処の体制整備の必要性から急速に進められていった。教育界においても、科学技術としての理科や数学もこの頃から浸透していき、小学校から教科として導入されていくことになる。

 一方で、日本が西洋に遅れている要因は、これまで封建制度の歴史が長すぎたためであると考える者があり、また、当時欧米諸国が採っていた「共和制」が国家の発展には欠かせないという者や、日本語そのものが世界に通用しないから、日本語を廃止し、英語を公用語にすべきだと主張する者までいた。初代文部大臣に就任した森有礼もそのひとりだった。

 こうした、西洋に魂を奪われる若者が年々増加し、明治10年頃にはその存在が無視できない状態になっていた。皇室の存在、日本の伝統文化、日本語を軽視する者が増え、国家を揺るがすまでになっていたのである。

 この国内の混乱を最も憂慮し危機感を感じていたのが、明治天皇であった。明治天皇は側近の元田永孚に命じ、「教学聖旨」によって天皇の教育に対する考えを示された。教学聖旨は以下のような趣旨である。

①輓近専ラ智識才藝ノミヲ尚トヒ文明開化ノ末ニ馳セ品行ヲ破り風俗ヲ傷フ者少ナカラス
②道徳ノ学ハ孔子ヲ主トシテ人々誠實品行ヲ尚トヒ然ル上各科ノ学ハ其才器ニ隨テ益々畏長シ道徳才藝本末全備シテ大中至正ノ赦学天下ニ布満セシメハ我邦獨立ノ精紳ニ於テ宇内ニ恥ルコト無カル可シ
③仁義忠孝ノ心ハ人皆之有り然トモ其幼少ノ始ニ其脳髄ニ感覚セシメテ培養スルニ非レハ他ノ物事已ニ耳ニ入り先入主トナル時ハ後奈何トモ爲ス可カラス
④農商ニハ農商ノ学科ヲ設ケ高尚ニ馳セス實地ニ基ツキ他日学成ル時ハ其本業ニ帰リテ益々其業ヲ盛大ニスルノ教則アランコトヲ欲ス

 つまり、学制以来の明治政府の教育政策が知識教育に偏っており、その弊害が見られることから、儒教を基本とする道徳教育を追加して知育と徳育のバランスをとること、効果的な徳育は幼少期に始めるべきこと、庶民教育は出身階層に合わせた実学を中心とすべきとする趣旨であった。(Wikipediaより引用)

 しかし、後の初代内閣総理大臣となる伊藤博文はこの方針に真っ向から反対し、「教育議」を井上毅に起草させ、元田の主張はひどく現実離れした空論であるとして、両者が激しく対立した。これが後に「徳育論争」に発展していく。

 明治天皇がこのような形で教育に関与されるに至ったのは、明治天皇が全国を巡幸され、小学校などをご覧になったことが大きく影響している。

 正式な記録はないものの、伝わっている話として記すと、ある高度な先進的な授業をご覧いただきたいと張り切った学校が各地にあり、ある学校では生徒に英語でスピーチさせる授業が行われたという。その授業をご覧になった明治天皇がその生徒に、「その英語は日本語で何というのですか」とお尋ねになったが、その生徒は日本語に直せなかったという。また、農商の子弟が学んでいるにもかかわらず、彼らの生活からまったくかけ離れた高尚な空論を説くような授業が行われていたというエピソードもある。

 当時の教科書は外国の翻訳書が使われており、国語や化学、数学、果ては道徳(修身)に至るまで、欧米の教訓書などを翻訳したものを使用していた。日本で作られた教科書もあったが、当時の学校現場では歓迎されていなかったようである。

 そういった経緯から、明治天皇は教育の危機を感じ、「教学聖旨」を出させるに至ったのである。

 伊藤と元田の対立は一方で、教育勅語渙発に向かってその内容を精査していくことにもなる。伊藤が井上に起草させた「教育議」は、「教学聖旨」に反対する一方で、こうも主張している。

「確かに、現状の学校教育に問題があることは事実である。しかし、これはあまりにも急激な大改革のためにおこっていることであって、だからといってその改革を全否定するようなことはすべきではない」「弊害を改めなければならないのはその通りとしても、昔の「陋習(悪い習慣)」に戻るようなことがあったとしたら、今日まで勧められてきた開化事業は水泡に帰してしまうのではないか」(「教育勅語の真実」伊藤哲夫著より一部修正加筆抜粋)

 もう一つ、教学聖旨にもある「儒教を根本に」という主張にも反論があり、旧来の宗教との関係がギクシャクすることを恐れた。元田は旧来の儒教に基づいた教育を目指しており、伊藤は開明先進的な西洋の教育を志向していたと捉えることができる。

 いずれにせよ、教育の現状を非常に憂慮された明治天皇の考えは至極当然のこととして、これ以降、具体的には明治15年頃から道徳教育にもっと力を入れなければならないという声が高まり、修身の教育に力を入れる実際の改革が徐々に行われていくことになる。そして、明治23年に教育勅語が渙発され、日本の道徳教育の基本方針が教育勅語を中心にまとめられていくのである。

 さて、この教育勅語だが、当初から法的な位置づけがなされていない。なぜなら、この勅語には法律成立時になされる総理大臣以下国務大臣の副署がないからだ。よって、正確には法律でも何でもなく、純粋に「天皇陛下のお言葉」なのである。東日本大震災の時のビデオメッセージや終戦の詔勅のような位置づけである。

 しかし、これが金科玉条のごとく教育現場で活用され、間違った方向に使われ出した。神聖視しすぎたために、軍国主義の象徴に仕立てられ、結果敗戦によって誤った教育の大元とみなされた。昭和23年には衆参両議院において、教育勅語の排除・失効の手続きが踏まれ、教育現場から"追放"されてしまった。

 ここで気づいたかもしれないが、そもそも法律でも何でもないものなのに、なぜ国会の議決を経て排除・失効になったのか。

 前年には教育基本法が成立している。当初はこの教育基本法と教育勅語はいわば車の両輪のごとく機能するはずだった。しかし、これもGHQの指令、米国の教育使節団の意見により、教育勅語は日本の民主化の障害になると指摘したため、排除・失効となったのである。

 とはいうものの、教育勅語は英語訳、ドイツ語訳、中国語訳などに翻訳され、世界的に高い評価を得ていた。戦後、米国の道徳教科書にも使われていたこともあり、生みの親である我が国だけこの教育勅語を悪者にしたまま、今もなお名誉が回復されていないのである。

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