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短編【椿が堕ちる夜】小説

今日、僕は八年付き合った彼女に別れを告げる。出逢ってしまった事に理由が無いように別れる事にも理由は無い。あえて理由を付けるのであれば、好きじゃ無くなった。と言う事だ。我ながら非道い理由だと思う。

待ち合わせの公園のベンチには既に彼女が…椿つばきが座っていた。

「ごめん。早かったね」
「え?」  

椿つばきと思って声をかけた女性は別人だった。だけど、ベンチに楚々と座っている後ろ姿は椿つばきにそっくりだった。顔の雰囲気もどことなく似ていた。


「あ、すいません…」
「いえ。ここで、誰かと待ち合わせ?」
「ええ」
「誰も来てませんよ。私、ずっとここにいましたから」
「そう…ですか」
「似てました?」
「え?」
「私。待ち合わせの人に」
「ああ、すいません。ええ、後姿が…あの、いつから、ここに?」
「黄昏時から」
「たそがれ」
「私、ここで夕日を見ていたんです。青色から藍色に変わる間のあの夕焼けを。少しずつ世界が熔けて行くようで。死にたくなってしまうくらい好きなんです。光が溶けてゆく瞬間が。夕焼けを見ていたらいつの間にかこんな時間に…どうぞ」

彼女は左手で、そっとベンチの空いている座面を促した。

「はい?」
「となり、空いてますよ。ぞうぞ」
「あ、いや…」
「大丈夫ですよ。彼女が来たら、席を譲りますから」
「じゃあ…失礼します…」

僕は促されるままベンチに座った。冷えたベンチの感触がジーパン越しに伝わった。


「もったいないですよね」
「何が、です」
「この高台。こんなに見晴らしがいいのに誰もこない」


公園は高台にあり、僕たちが座っているベンチの1メートルほど前には丸太とコンクリートで造られた柵がある。柵の向こう側は10メートルほど降って僕が住む町が一望できる。日暮れの町はぽつぽつと灯りが灯っている。


「…あの…」
「はい」
「まだ、ここにいます?」
「ええ」
「……ひとつ頼まれてくれませんか」
「……いいですよ」
「実は僕、今日ここで彼女と別れ話するつもりなんです。…それで、今日ここに彼女を呼び出したんです」
「…そうですか。それで私に何を?」
「その…。僕の…、僕の新しい恋人の振りをしてくれませんか」
「あなたの?どうして?」
「別れる理由が見当たらないんです。だから、他に好きな人が出来た。っていう」
「彼女を傷つけてでも、別れたいんですか?」
「努力は…努力はしましたよ。傷つけないように。でも、彼女は聞き入れてはくれなかった。僕の気持ちはもう…離れてしまっているのに………お願いできますか」
「……はい」

僕の自分勝手で最低過ぎる提案に、その女性は乗ってくれた。辺りはすっかり暗くなりベンチの横に備え付けられている街灯が僕らを照らした。それは冷徹で残酷な僕を嘲笑っているような冷たい光りだった。

「でも、恋人同士なら、名前を知らないといけませんね」
「そうですね。お名前、よろしいですか?」
椿つばきです」
「え?」
「どうしました?」
「…いえ」
「じゃあ、あなたの事、あゆむって呼びますね」
「どうして…どうして僕の名前を」
「さっき言ったじゃないですか」
「さっき?」
「ええ、言いましたよ、ご自分で」
「そう……ですか」
「彼女の名前は?あなたの恋人の」
「ああ…あの…椿つばき、です」
「あら、私と一緒」
「ええ」
「偶然ですね。こんな偶然ってあるのかしら。そう。椿つばきさんって言うの、あなたの彼女。じゃあ、私の名前を変えなくちゃいけないわね」
「すみません」
「姉がね、姉がつけた名前なの」
「はい?」
「私の名前。私が生まれた時に、庭に椿の花が咲き乱れていて、それを見た姉がね、私に椿つばきって」 
「そうですか。椿つばきも、あ、僕の彼女の。彼女にも姉が、たしか一人。でも、亡くなってしまったみたいですけど」
「そう…ですか…」
「どうかしました?」
「私の姉も、亡くなってしまったの」
「え?」
「こんな偶然ってあるんですね。ますます逢いたくなったわ。椿つばきさんに…どんな人です?椿つばきさんって」
「どんな人って…」
「彼女が来るまで、話を聞かせて下さい。椿つばきさんの。同じ名前だし、気になるわ。どうして亡くなったんですか?椿つばきさんのお姉さん」
「さぁ。詳しくは。椿つばきは…彼女はそう言う事は話したがらなかったから」
「そうですか」
「遅いな…」

僕は腕時計を見た。約束の時間からだいぶ過ぎている。


「泣いたらどうします?」
「泣いたら?」
「あたなと私を見て、椿つばきさんショックで泣いてしまうかも」 
「泣いても…泣いても最後まできちんと話はします。ちゃんと納得するまで」
「死んでしまったら?」
「え?」
「悲しみのあまり、そこの柵を越えて飛び降りてしまったら?」
「どうしてそういう事を言うんです」
「私の姉は、飛び降りたんですよ。夕日に染まったビルの屋上から。愛した男に裏切られて」
「別に、僕は裏切ったわけじゃあ」
あゆむ!」

突然、名前を呼ばれた僕は耳を疑った。椿つばきさんの声は、僕の名前の言い方は、椿つばきのイントネーションと全く一緒だった。あまりにも耳に馴染む言い方だった。

「…彼女も、そんな風に呼ぶんですか?」

僕は何も答えられず、椿つばきさんを見つめた。

「どうしました」
「いや…今の言い方、椿にそっくりだったから…似てます。椿によく似ている」

僕はついつい彼女見入ってしまった。

「そうですか。………どうして嫌いになったんです」
「べつに嫌いになったわけじゃあ」
「好きじゃなくなっただけ」
「………そうかも知れません」
「それじゃあ、椿つばきはどうしたらいいかわからないわね。いっその事、嫌いになってくれた方がいいのに。『好きじゃ無くなった』…あなた、ある日突然、椿つばきにそう言ったのよね。少しずつ少しずつ好きじゃ無くなっていったのに、あなたはそれを隠して、好きな振りを続けて、愛している振りを続けて」
椿つばき、さん?」
「この人になら全てを委ねてもいいと思った時に、あなたは椿つばきに『好きじゃ無くなった』って言った。突然。なんの前振りも無く」
「何を…」
「可哀想な椿…。なんでも私の真似をして…。椿つばきはあなたを待っていました。真っ赤な夕日を見ながらここに座って。あの子は耐えられなかった。あなたが来るまで、ここに座って。一人であなたを待っていたの。傷つく為にここに座って」
「あなたは一体…」
「妹は、そこの柵を飛び越えました」
「え?」
「黄昏の中に溶け入る様に飛び込んで。椿つばきは、あなたの名前を叫んで飛び降りたのよ。歩さん。あなたの名前を叫んで…黄昏の中に…溶けて入ったのよ…」

僕はベンチから飛び跳ねる様に離れ、高台の柵から真下を見下ろした。そこには真っ赤な椿が倒れていた。振り向いた時には、あの女性はもう、消えていた。

冷たい街灯の光が誰も居ないベンチを照らしていた。

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