短編【やめなさい】小説
玄関から娘の唯愛乃の、ただいまあ、と言う声が聞こえた。父の茂はロッキングチェアに身を預けながら、おかえりい、と返した。
「今日は早かったな」
リビングに入ってきた唯愛乃を見て茂は言った。
唯愛乃はブランド物の小洒落たリュックを左肩から滑らせてソファに落とした。右手にはコンビニのビニール袋を持っている。ビニール袋からはアルミ缶が数本見える。
「ご飯は?」
と唯愛乃。
「食べたよ」
「私の分は?」
「ないよ。こんなに早く帰ってくるって知らなかったから」
「ああ良かった。弁当買ってきたから大丈夫。ビールあるけど飲むでしょ?」
「お、初めての父親孝行ですか」
茂はロッキングチェアから、よいせっ、と身を起こして、唯愛乃が座っている食卓へと移動する。
「ほい」
「サンキュ」
唯愛乃はビニール袋からビールを一本取り出して茂に渡す。二人同時にプルタブを開けて、二人同時に口をつけて、二人同時に感嘆の声を漏らす。
「ああ!」
「美味いねえ」
「やっとプロジェクトがひと段落ついてさあ」
唯愛乃はビールを飲みながら、弁当を食べながら、勢いよく喋る。茂は久しぶりだなあと思っている。このひと月、唯愛乃は仕事が忙しかったようで朝夕の挨拶だけで、まともに会話が出来ていなかった。
一人娘も成人し、病気と戦ってきた妻も旅立ち、肩の荷が降りた茂は長年勤めた商社を早期退職して悠々自適に暮らしている。
「あにしてたの、今日は」
口の中に食べ物を残したまま、唯愛乃は聞いてきた。
「うん。これをね、読んでた」
茂はズボンのポケットからキンドルを取り出した。
「キンドル?父さん、キンドルなんて読むの?」
「うん。勧められてね。読んでみると、あれだね。便利だ。読みやすいし」
「ふーん」
「それでね、唯愛乃にちょっと聞きたい事があって」
「なに?」
「スマートフォンで本をこれにダウンロード出来るって聞いて、そのやり方を」
「貸してみ」
茂はキンドルとアイフォンを唯愛乃に渡す。唯愛乃は右手で割り箸を使いながら左手でアイフォンを器用に操作する。
「あ」
と唯愛乃は声を出して動きが止まる。
「どうした?無理なのか?」
茂は半ば残念そうに聞き返す。
「おー、ほほほぉ。まあ、まあ、まあ。へぇー。いやいやいや」
唯愛乃は割り箸を噛んで、上下に揺らしながら、にやにやと笑って茂を見る。
「な、なに?」
唯愛乃は受け取ったアイフォンの画面を茂に向ける。そこには40代後半の笑顔が可愛らしい美人が写っていた。
「あ、いや、あの」
「いいと思うよ、私は」
「な、なにが」
「いいんじゃない?優しそうな人だし」
「だから」
「この人に教えて貰ったの?キンドル」
「え?まあ、静江さんに」
「しずえさん?ふふふふふ」
「やめなさい、そういう笑い方は」
「もう一本、ビールあるけど飲む?」
「いや、この一本で」
「まあ、まあ、まあ」
唯愛乃はもう一本ビールをビニール袋から取り出すとプルタブを勝手に開けて茂の前に差し出す。
「おい、おい、仕方ないなあ」
茂は、最初のビールを飲み干すと二本目に口をつける。
「しずえさん。ふふふ」
「やめなさい」
久しぶりの親娘の団欒は甘酸っぱい雰囲気に包まれていた。
この日から、唯愛乃は茂に時々不意に「しずえさん」と言ってからかい、その度に茂はビールを飲んでいないのに「やめなさい」と言って顔を赤らめるのだった。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?