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長田弘を語らないか

物語りなりや、物書きなりや。

とかく物書きという人種は、やたら物珍しいかたが多いようで。

今回ご紹介する物書きは、長田弘(おさだ ひろし)さんでございます。


こんな爺さんになりたい

5月3日は、長田弘さんの命日です。

長田さんは、詩人であり、児童文学作家であり、翻訳家でありましたが、わたしの印象は「こんな爺さんになりたい」と憧れる人物でした。

エッセイ『ねこに未来はない』の解説にこんなエピソードがあります。


長田さんが子ども連れで公園を散歩していたら、彼の風貌が気に入ったのかカメラマンがしつこく写真を撮ろうとしたそうです。

長田さんは「よせ」と3度まで警告しました。

それでもカメラマンが撮ろうとしたら、長田さんは石を拾いあげたのです。

カメラマンがシャッターを切った瞬間、長田さんは石を投げてカメラを壊してしまったのです!

カメラマンが彼を警察に連れて行きましたが、逆にカメラからフィルムを抜き取らせてしまいました。


どうですか、おっかないエピソードでしょう?

わたしなんて「カメラなんて高級品」だと思い、手が震えて当たりませんよ。

これは持論ですが、魅力ある人物のオーラは、人柄だと思うのですよ。

石を投げられても写真を撮ったカメラマンには、長田さんがよほど魅力ある人物だと映ったのでしょうね。

手前ミソな話ですが、わたしがまえに手相を観てもらったとき。

ひとしきり鑑定が終わったあとに、占い師がクスリと笑ったのです。

「あなたの老後は、典型的な頑固爺さんになりますね」

そのときには意味がわかりませんでしたが頑固爺さんと聞くと、なぜか長田弘さんのエピソードを思い浮かべ、彼のようになりたいと憧れる対象になったのです。

それほどに長田さんは魅力があり、わたしの数少ないメンター(恩師)のひとりでもありました。


世界は一冊の本

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長田さんは最初の詩集『われら新鮮な旅人』から50年。18冊の詩集、471篇の詩を世に残しました。

『長田弘全詩集』は、亡くなる2015年5月3日のまえに彼の軌跡を全詩集にして編まれたものです。

目は見ることをたのしむ。
耳は聴くことをたのしむ。
こころは感じることをたのしむ。
どんな形容詞もなしに。
どんな比喩もいらないんだ。
描かれていない色を見るんだ。
聴こえない音楽を聴くんだ。
語られない言葉を読むんだ。
「静かな日」より

「世界は一冊の本」として読み、人は風景を生きる存在であると、長田さんは考えていました。

あなたも活字中毒ならば、「言葉」の無い世界を想像できないでしょう?

人は読書する生き物です。
人として人たらしめてきたのは、そう言い切ってかまわなければ、つねに読書でした。
読まないでいることができない。
それは人の本質的な在りようであり、それゆえ人のこの世の在りようを確かめてきたのは、いつのときも言葉です。

「本」と真摯に取りくみ、「言葉」と命がけで向かいあったのです。

詩人は言葉の製作者ばかりでなく、言葉の演奏家でもあるのでしょう。

わたしはいまでも、長田さんの詩にある語彙をノートに書き写しています。

「傷がないのに、痛みがある」とか「世界は綺麗な凶器でつくられている」とか「探した探したこのぼくがいまここにいる」とか。本当に得るものがあります。

その人物の人柄は、「言葉」にあらわれます。長田さんの「言葉」は、胸に沁みるほど優しいのです。


すべてきみに宛てた手紙

2011年の東日本大震災。自身も福島に生まれた長田さんは、大病のために11時間にもおよぶ手術をうけ、九死に一生を得たそうです。

それでも東日本の惨状を目の当たりにして、死命さえも慈しむことがかなわないほど、無涯の悲しみに苛まれました。

「当たり前のものごと、平凡なものごとが如何に奇跡か」

そう感じる心の重要性を詩に込めたのでしょう。

ただここに在るだけで、
じぶんのすべてを、損なうことなく、
誇ることなく、みずから
みごとに生きられるということの、
なんという、花の木たちの奇跡。
きみはまず風景を慈しめよ。
すべては、それからだ。
「奇跡ーミラクルー」より

「後の人々の目印になるものを」と目指した詩人でした。

北風のごとく激しくて、陽だまりのように温かい人でした。

すべての詩は「読む人」に宛てた手紙だと告白していました。

文字をつかって書くことは、目の前にいない人を、じぶんにとって無くてはならぬ存在に変えてゆくことです。
これらの言葉の宛て先である「きみ」が、あなたであればうれしいと思います。

およそ薄っぺらな言葉が横行する時代にあって、長田さんの詩が読める幸せは格別でしょう。

詩人一匹、長田弘さん。

わたしは彼のように老後を生きたい。

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