2024/04/17 持ち上げて、落とす
おはようございます🙏
今日はおだやかでないはじまり方です。
昨日読んだ記事では、相手、不特定多数を指して褒めそやしたあと、思いっきりおとしていましたね。
「私なんて」
といいつつ。
この修辞法なのですが、広告によくあるパターンです。
「こんな私でも」
とか、
「なんで私が」
とか。
お分かりかと思いますが、読者である「あなた」がよりも、語り手の「私」が格上という主張があり、同じ土俵なら前提を飲ませようという欲求が否定しきれないのです。
前提が違うなら、何言ってんだと跳ねつけるのは簡単です。ジャンルが違うなら降りるのも自由、入退場自由というわけです。
つまり、「英語学習は厳しい」というスクールの宣伝には「私パティシエ学校ですが何か?」とか、「なんで東大に?」には「俺は岬の灯台さ」とか、関心事のはぐらかし方もあるのです。
ジャンルという言葉で分かりにくければ、学校やクラス、会社や同期、という区切りならわかり良いのではないでしょうか。
自由という観念はこの場合、思い込みや欲望や服従心、帰属意識に対して弱いものです。いくら、
「自由にしていいよ」
といわれても、欲求とかの一定のベクトルが存在すると事は簡単ではありません。
自由になるには欲求や欲望、関心や執着を諦める事も一手かとは思います。なかなかムキになっていると気づきにくいですね。
2024/04/17 ここまで
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?