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2024/07/01 がんばっても絶対越せない未来/がんばらない決断

 おはようございます🙏

はじめに

 今日は、私の「リカバリー・ストーリー」について書きます。
 これ、グチと紙一重なんですよね。一歩間違うと。
 何もリカバリー・ストーリーが間違っているという気はありません。

 何が違うかというと、モチベーション、動機の違いではないか?と思います。過去を振り返る、これは誰もがすることです。でも、そこからどこへ向かうかで現在が変わります。未来は現在の積み重ねです。現在をよくすれば良い。リフレーミング、とらえ方の問題、私が言いたいのはそれだけの話です。

 たとえば、身体障害で義足を使っている人がいるとしますね。その人がパラ五輪で活躍しているとしても、健常者の五輪とすべての意味で互角にするのは不適当に私は思います。

 同じく、精神障害で薬を飲みながら日常生活を送っている一人が私です。俗にレッド・オーシャンと呼ばれる出世競争の一般枠で互角に闘うことができないけど、それにどうして引け目を感じる理由があるのでしょうか。

 いずれにしても、障害というのは一度そちらに移った以上、不可逆的なものであり、その中で生きていくほかない訳です。

 たしかに、健常者がマジョリティー、大多数である事で発言力が大きい事は認めます。大勢に付いているほうが楽なのも認めます。正直なところ、同じく障害を持っている自助グループのなかで、同病の仲間が多いと安心感を覚えることも不謹慎ながら否定できません。こればかりは人間の心理だと思います。

障害と差別と残された可能性

 では、差別の何がいけないかということになりますが、「あちらに移ると(マインドフルネスな生活、心が満たされた生活に)戻れないよ」という偏見が私にとってはいけないことだと思います。

 たしかに、前出のパラリンピアンのインタビュー記事等を見ると、「可能性を(全世界に)見てほしい」という意味の発言が心に残ります。精神障害者であっても、日常生活に意思決定の面で障害がある事を除けば、生きていくための「可能性」を十分に追求して悪くないと私は思います。

 パラ五輪のほうでは、残された可能性を追い求めることに意味があるという動機があります。可能性を追い求めるということについて、精神障害者についても矛盾はないと思われます。

 金銭の多寡をめぐってその人の値踏みをする人達もいますが、今日はその部分を割愛して制度上の問題として他論に譲ります。

 かつて私は見たのですが、地下鉄駅のエレベーター前で駅員に対してアクティングアウト、感情表出をしている車椅子の男性を見かけました。コミュニティバスでも、さっきから手を挙げているのになぜ気づかない、と運転手に抗議している方も見かけました。

 その人らしく主張を通すのは身体であれ精神であれ障害を持っていると健常者から反発を受けることは認めます。それは、見たことのないもの、見てはいけないものを見てしまったというタブー視なのだと思われます。あるいは、もう少し控えめにしてほしいという偏見も含まれるでしょう。私自身も他者に対してそうした感情を持ってしまうときもあります。

障害受容とリカバリー・ストーリー

 実は大切なことは、障害受容について自分自身への偏見や偏った感情を持ってしまう点です。そこを乗り越えるとまた新しい世界がたとえですが開けています。

 私自身精神障害者保健福祉手帳を取得したとき、2級という数字に打ちのめされた覚えがあります。はっきりいってショックでした。それまで、一般枠でがんばっても評価されず貶められ、日常生活もままならなくなっていく一方でした。休職中のある晩、遊びに来ていた姪たちを近所の図書館に送り出して車内でひとり、本を読みながら帰りを待っていました。さっぱり本の内容が頭に入ってこないのです。ここまでひどくなったかという諦めの境地に達し、頭の中で白旗を揚げていました。精神科に通いながらはやそのときには既に18年、もう健常者としてはやっていけない、先生に勧められたとおり障害枠を選ぶことにしました。四半世紀勤めた職場を追われるようにあとにしました。

 就労移行支援事業所に通い、それから障害者雇用にて現在に至るという形になります。そこで学んだのは精神障害を持ったならばそれに応じた働き方、配慮事項、弱みと強みの把握の仕方、規則正しい毎日の過ごし方、適切な休憩、などです。

 私は今でも先に述べたように感情に動かされてしまうときもあります。
 それでも、健常者との見えないガラスの壁を感じつつも日々過ごしているというところです。

2024/07/01 ここまで

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