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白状します(今日は彼岸の中日)

こんばんは。今日もお疲れ様です。
今日はお墓参りしてきました。

よく、親とか親戚とか最期に交わした会話がなんだったのか、そこにこだわる根拠もなく話題にしたりしますね。
有名な人でいえばアインシュタインの最後の言葉がドイツ語で語られたらしく、ドイツ語を解さない看護婦が看取ったためとかその内容ははっきりしないといいます。

私も春秋のお彼岸やお盆、年末の法事で父のことを普段より強く思い出します。今日も墓参から帰り夕ご飯を終え一段落していると、インターネットラジオからマーラーの交響曲第二番「復活」が流れてきて、何ともいえない因果をおぼえます。

それはその晩に父を看取ることになってしまった日の午前から昼過ぎにかけてです。何をしていたかといえば、ちょうど同じ状況でインターネットラジオから「復活」が流れてきたのです。

もう父は長くない、にもかかわらず「この曲いいよな」という。ちなみに父以下、日蓮宗の信者でありキリスト教徒ではないのです。

「復活」されるのはあの方(復活の主)に申し訳ない、まだ世の終わりでもないのに縁起でもない。縁起というとおり、やっぱり私も仏教徒の端くれである。「マーラーの曲長いから」とすかさずヴェルレクのCDをかけ始めたのが私でした。

差し詰め、カトリック信者なら終油の秘蹟を連想するでしょう。「レクイエム」なのですが父は従容として曲を聴いていました。
中日和といい、もうすぐ亡くなる人は突然にシャキッとしている日が訪れ最期を迎えるといいます。ろうそくの火が最後にパッと明るくなって消えるのに似ています。

後日譚があります。2019年の12月にN響定期公演でクリストフ・エッシェンバッハ氏指揮の演奏会を私も聴きに行ってます。2時間近く休憩も無い演奏で、修了後の熱気と余韻でロビーに私を含め観客は目白押し状態でした。良い意味で放心状態です。

さらに、ヴェルレクことジュゼッペ・ヴェルディの『レクイエム』を昨年2022年9月に同じくファビオ・ルイージ氏の指揮の演奏を聴きに行ってます。この時はホール内の観客席を見渡すと、最初の「入祭文 レクイエムとキリエ」序奏を聴いて目頭を押さえる人も散見されました。

その前には東日本大震災犠牲者追悼の演奏で同じ曲目が演奏されていたそうです。今回はCOVID-19の犠牲者を悼む気持ちもあったと私は汲んでいます。演奏のブックレットや案内には敢えてそこには触れていなかったようです。

《ああ、この人と生きて会えるのはこれが最後か。》大概の場合私の勘は当たります。ちょうどゾウが自分の死に場所を探してゾウの墓場にたどり着くかのような感じでしょうか。実を言えばわたし自身、そのことを察しておりながら、じつは身内の遠くない死までの時間稼ぎをしたいと悪あがきしていた節もあります。

逝く人は昼夜をおかない。朝に紅顔の美少年は夕べに白骨になりという無常観。妹は家庭に入っていて私の物心両面から支援してくれているが、私について嫉妬ゆえか厳しい指摘をして檀家のご上人さまも同じ事をいっていた。お父さんの威光を浴びて仕事していたのに没後その神通力は失せて、弱い私は結局職場をあとにせざるを得なかった。周囲の陰謀もあったがいまだに短編小説にしてまとめる期には至ってない。

その父を失い、真っ先に糸の切れた凧のようにどこかへ行ってしまう。仮想空間でいえば真っ先に庇護者・パトロンを失ったことを後悔します。

パトロンといえばそういえば若死にした数学のエヴァリスト・ガロアは教会とかで自分が共和派に狙われてる体験を繰り返ている。酒に溺れたり、暴力を振るったガロア。天才と裏腹に荒れた一面を持っていて味方は少なかったようです。

そう思うと、知恩報恩、親戚へのプレゼントは惜しんではならない。そのような気がしてくる。

(了)

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