[努力]<[身分差]?

こんばんは🙏お疲れ様です
ふとどーでもいいことを考えていました。
努力で埋まらない身分差が存在する。そういう話です。

じゃあ、身分差のないところとは?
イーブンだということ、平等だということですね。
この世界には平等でないことが責められない分野があります。
それは「機会」ではなく「能力」です。
アメリカのある政治家が演説してこの部分はよく知られてないでしょう。

機会は努力があれば埋められますが、能力は生まれつきとすれば埋められないことになります。(もっとも能力を「才能」や「個性」や「特性」に置き換えればより現代的かつ直接的でしょう。)

残念ながら、人が集まり社会ができると「直系」や「傍系」で争う場面も出ます。これが「機会」であれば努力で埋められることになるでしょう。
しかし、実際はそうでしょうか?
つまり身分差とは「機会」というよりはむしろ「能力」に分類せざるを得ないでしょうか。

でも、もしそうだとしたら身分差には、努力で埋まるかどうかというカテゴリーは相応しくないことになります。少なくとも、努力は無関係かもしれません。

身分差のある人達とお近づきになる機会とは実際、一通りではないと私は思います。「縁」があればいくらでもありだと私は思います。

職業の選択とか配達で訪れた先とか話の流れとか。却って努力して足掻けば足掻くほど遠のくのも「縁」ではないでしょうか。

最近よく思うのが、相手の態度が変わったようでいて実は自分の本性があぶり出されてしまっていた、という発見についてです。
相手は何にも変わっていないのだから、自分自身の変節によって他者の変節をも引き出してしまうというものです。
せっかくつかんだ「縁」を保つのも遠ざけるのも自分次第になります。

少なくとも仏・法・僧を信奉し(仏教徒の端くれなのでお盆が近いこともあり書きますが)いつも身近にさせていただいているのもまた「縁」です。
広辞苑では「赤い糸」は親の敵でもつなぎとめるというおそろしい解説があります。でも、「糸」や「絆」といった物理的なものよりも「縁」という心理的なものだと近づきやすいと感じませんか?

もちろん、「縁」は現世利益だけに限ったことではありません。なので、身分について結びつけて書いたことについてはなかったことにしてください。あくまでも「身分」は現世利益で現金な見方なのかもしれませんね。生きている間にしかできないことがありますので、そうしたことについて考えてみるよすが(縁)になればと思います。

とりとめもないお話に付き合っていただきどうもありがとうございました🙏

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