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2024/04/12 しゅらばらばだんすとぅーゆー

♪ときめきのぱらだいす(ぱーらだーいす)
今日は一歩間違うと修羅場になる話です。

 私が通っている精神科でお世話になっている精神保健福祉士(PSW)さん。私の話の、ある気配を察してから「私は結婚していますので」とサッとひとことをいれてきた。
 後知恵ながら、あれはプロフェッショナルとしてはバウンダリーをひくという意味でとても手際よい事だったと思う。一般人同士だったら少し考えさせられてしまう場面だろう。相談員対患者(私)という間では適切だったと思う。ピア活動の実践でも参考にさせていただいている。

 別の人、幼なじみについては20年経ってから手紙一本で同じ内容の報告があったきりである。旧姓と括弧書きしてあるのは気遣いなのだろうか。私としては相手が誰だったのか、共通の友達だとしたら私が限りなく傷つくだろうという気遣いもあったかもしれない。いや、私のことだから取り返しの付かない結果を私自身の身の上に招きかねないという気持ちもあったのだろう。彼女の記憶の中では、私は繊細な人であり実際そうである。
 しかも子供がいるという。こんな当たり前のことが私にできないとは、そういう人として恥ずべき思いが私を圧倒する。この手の話は返事が早ければ早いほど修羅場になる話であり、子供の高校入学まで待ったのは時機を待ったのではとも思える。既成事実化してしまうのを待ったのだ。時という壁が二人を阻むのを待っていたのである。

 時間というものは人の心の傷を癒やすと言うが、逆に時間は心の傷を大きな傷跡にしてしまうこともある。私にとってみれば、指一本、手足一本を失うぐらいの痛手である。聖書に言うが、その手が過ちを犯すなら全身が地獄に投げ入れられるよりも手を失うほうがまだ良い、というような箇所がある。手のところが眼というふうに譬えが置き換えられているところもある。
 そう、人の幸せを打ち壊してしまうぐらいなら指一本、手足一本惜しくないという譬えにもなる。その代償は私の同級生達が、私の一生を台無しにしたのと同じく、おめおめと生きながらえる今をまた、更に台無しにするのに十分である。
 生きることとは、独りで生きざるを得ないということは、ここまで理不尽でありここまで残酷である。そこには職業的な立場からスパッと引ける一線もなければ、ただ、小説にもできないドロドロとした情念しか残らないのである。思い出す度に胸をえぐられる思いである。

2024/04/12 ここまで

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