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《ユートピア》に出会った男/海老原弘子

『石川三四郎 魂の導師』を巡って、スペインのアナキズムがライフワークの海老原弘子さんにエッセイをご寄稿いただきました。(虹霓社編集部)

スペインのアナキズムをライフワークとする私が石川三四郎に興味を持ったのは、スペインのアナキズムの源流「第一インターのアナキズム」の重要人物ルクリュ家と交流があったと聞いたからだ。亡命者として欧州に辿り着いた石川に支援の手を差し伸べたポールの父親は、著名なアナキスト地理学者エリゼ・ルクリュの兄エリーだった。歴史上は弟エリゼの圧倒的な知名度の陰に隠れた存在となっているが、エリゼとともに世界中を旅したエリーもまた重要なアナキストであり、優れた人類学者であった。スペインでは二人をまとめてルクリュ兄弟と表現することも多い。

私はヨーロッパに行って、会ふ人も会ふ人も、悉くといつてよろしいほど、単純生活、労働生活の実行者であり、純潔な修道僧のやうに見えたのに驚かされた。(中略)特にアナルシスムを説くのでなければ、新しい道徳を主張するでもないが、唯だこの世俗に光と薫を身辺に放っている。それだけだ。それでその身辺に及ぼす感化力は深刻なのである。(本書P.30)

この一節を読んで、石川が当時のフランスでは時代遅れとなっていた第一インターのアナキズムに、間近で触れた幸運な人物であったことを確信した。彼が出会ったアナキスト像は私が思い描くスペインのアナキストの姿そのものだったから。本書を読み進めている間、奇妙な感覚がまとわりついていた。かつてスペイン語でこの人について読んだことがあるという、デジャブのような感覚だ。誰なのかは思い出せなかったが、以前にスペイン語のテキストで読み親しんだ誰かに石川はよく似ていた。その謎が解けたのは、挟み込みの小紙『半農生活者の群に入るまで』の中に一人の人物の名前を見つけた時だ。シャルル・フーリエ。そう、私は石川の中に空想的社会主義者フーリエを見ていた。
 
フーリエは農業を中心に生産と消費を行う共同体を《Phalange/ファランジュ》と名付け、自らが考える《ユートピア》のモデルを徹底的に具体化していった。一つのファランジュは男女810人ずつの計1620人で構成され、2300ヘクタールの土地で自然と共存した活動を営み、美しい建造物の中で共同生活を送るといった具合だ。祖国フランスにおいて《ファランジュ》計画が日の目を見ることはなかったものの、そのアイデアは弟子の一人と言われるヴィクトル・コンシデランらが1832年に創刊した定期刊行物『Phalanstère』の姿で、軽やかに海や山を越えて大きく花開くこととなる。

ピレネー山脈の反対側に位置するスペインでは、1868年フーリエの《Idea/イデア》に触発されてコロニア法が制定されると、数々の《ファランジュ》が建設された。中心となったのはカタルーニャからアンダルシアまで地中海を臨む地域で、アリカンテに建設されたコロニア・デ・サンタ・エウラリアは「スペイン内戦」の時代まで生き延びることになる。20世紀初頭、ファシスト勢力がアナルコサンディカリスモの労働組合CNTへの対抗馬として立ち上げた組織に《ファランジュ》のスペイン語訳《Falange/ファランへ》と名付けたと言えば、その影響力の大きさが想像いただけるだろう。

フーリエの《イデア》は大西洋も渡る。1828年にパリを訪れた米国のアルバート・ブリスベンはフーリエと知り合い、帰国後に『The Phalanx』を創刊して米国で次々と計画される共同農場にインスピレーションを与えた。コンシデランは1855年『Phalanstère』の後継紙に発禁処分を下したナポレオン・ボナパルトの弾圧を逃れて米国へ。ブリスベンも加わってテキサスで《La Réunion》と名付けたられたユートピア建設に着手するが頓挫し、1869年舞い戻ったフランスで第一インターに参加する。そこにはルクリュ兄弟の姿があった。

石川の農民生活の始まりとなったポール・ルクリュの家は、フランス中部ドルドーニュ県のドンム 村にあったという。ドルドーニュ川沿いに位置し、豊かな自然に囲まれたその立地は、どこから見てもフーリエのユートピア建設に最適の土地だ。ルクリュ家がこの土地を選んだのは、数々のユートピア建設の例に倣ったためであったという気がしてならない。なぜならポールの父エリーこそが、スペインの民衆が《ファランジュ》に心を弾ませていた時期に、第一インターのプロパガンダでアンダルシアを訪れたバクーニンの同志だったからだ。

偶然出会った《ファランジュ》建設予定地で土と向き合う日々を送りながら、石川はいつかそこに建設されるはずの《ユートピア》の姿を目にしたのではないか。フーリエの《イデア》に着想を得て、世界各地で人々が思い描いた理想の共同体。そこには賃金も私有財産もなければ、経済の競争原理が幅を利かすこともない。自然と人間が調和の中で生きる《もう一つの世界》 。19世紀のスペインで、民衆はアナキズム思想を単に《イデア》と呼び、来るべき世界の姿に《アナルキア》と名付けた。

帰国した石川は、フランスの土から掘り出した《イデア》を日本の土に刻んで《ユートピア》の存在を示そうとする 。結局のところ《ユートピア》建設には挫折するが、土から土へと伝わる《イデア》を日本語で記録することには成功し、私たちに『ディナミック』を残した。百年余り前に書かれた石川のテキストが現在の世界に生きる私たちを引きつけるのは、新自由主義の過酷な生存競争に疲弊した人々が待ち望む社会、競争のない《ユートピア=アナルキア》への招待状だからであろう。

晩年の石川もフーリエを彷彿させる。フーリエは晩年、新聞広告を出して《ファランジュ 》計画への投資を望む資本家を募り、毎日定刻にきちんと身なりを整えて、心ある資本家の来訪を待った。資本家に期待するのは甘すぎると同志から揶揄されても、資本家の人間性に一縷の望みをかけた老フーリエ。待ち続けた二人の老人の前に、待ち人が現れることはなかった。

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《画像説明》
第一次世界大戦開始直後、ブリュッセル市のルクリュ家にて。ポールとマルガリータの夫妻と石川三四郎(『不盡想望』書物展望社刊より)

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