読書会の愉しさと意義についてのメモ
先日の4月2日(土)、自分が主宰している読書会が3回目を迎えた。その日は、奥村隆著『社会学の歴史I』(2014、有斐閣アルマ)のK・マルクスの章を読んだ。理論的な説明が多い章なので少し心配をしていたが、杞憂に終わった。年齢も職業も性別も異なる、少し前には初対面だった人たちが、「疎外」という概念からの連想や疑問を小一時間話し合うような様子は、非日常的な経験である。とても楽しい時間だった。
「言語ゲーム」という考え方
読書会のレジュメの準備をする際、柄谷行人『マルクスその可能性の中心』を改めて読んでいた。本書で柄谷は、青年ヘーゲル派に属すひとりの哲学青年だったマルクスが、自分の所属していた「言語ゲーム」(ヴィトゲンシュタイン)からどのように離れて行ったのかを述べる際、「パリ」という、自分の勉強していた哲学的言語や常識が全く通じない空間に移動したことが重要だったのだとしている。
柄谷によれば、ここで大切なのは、マルクスがパリの現実を「真実」とし、ドイツ哲学の言語を「誤ったもの」だと二項対立的に考えたというわけではなく、マルクスが両者の「差異」に入りこんだということである。つまり、言語とは一種の「ゲーム」のようなもので、基本的に別のルールをもつ言語の世界に行けば全く通用しないものであり、それぞれのルールを有するに過ぎない「相対的なもの」なのだ、という気づきがあったというのである。
〈遭遇〉の場としての読書会
私が感じている読書会の愉しさは、マルクス-柄谷の感じた「言語ゲーム」的なリアリズムと何らかの関係がある気がするので、少し書いてみる。
すでに述べたように、私が主宰している読書会は、一応、私が主宰し、内容をまとめたレジュメを作成している。そのうえで、専門的な用語についてもなるべく調べ、「こういう意味ですよ」と補足している。
しかし、読書会をしていて「おもしろい」のは、「よくわからないところ」や「おもしろいと思ったところ」を参加者同士で話し合い、「こういういことなんじゃないの」と話し合うときのほうだ。そのとき、各自が提出する解釈や連想は意外なことばかりで、私が調べてきたものが、あくまで「社会学」の世界の常識に過ぎないことを痛感するのだ。
つまり、読書会では、一つの本をベースにしつつ(「ゲームボード」の設定)、それぞれに異なる常識や背景(≒「言語ゲーム」)を持つ人びとどうしが、それぞれの「言語ゲーム」を出遭わせているのである。このような〈異なるものの遭遇〉こそ、読書会の愉しさだと感じている。
科学コミュニケーションの場としての読書会
このような「言語ゲーム」の遭遇は、私のような「研究者」にとってこそ、とても有意義だと感じている。科学の世界のトピック(科学のおもしろさや科学技術の効果と課題など)について専門家が非専門家に対して伝達するコミュニケーションを「科学(サイエンス)コミュニケーション」と呼ぶ。そのねらいは、社会の「科学リテラシー」を高め、科学と人間社会のよりよい関係を目指すことにあるとされている。
一般に「科学コミュニケーション」は「理科系」の分野の行為だと思われているが、私(たち)が読書会で体験しているのは、まさに社会学のような「文系」の学問の「科学コミュニケーション」なのだと思う。「文系」の「科学コミュニケーション」もまた、「理系」と同様に、ある学問のおもしろさや概念・理論の内容や有効性などを伝達するとともに、そのリテラシーを高めることにあると言えるだろう。
しかも、読書会では、ある専門知についての情報や知識の「伝達」だけではなく、複数の「言語ゲーム」の〈遭遇〉という形で、科学コミュニケーションが行われる。〈遭遇〉の形で科学コミュニケーションが行われる場合、専門知に対する「非専門家」の理解や連想、疑問などは「専門家」に即座にフィードバックされ、専門家自身にも有意義な気づきを与える。つまり、読書会で「学び」を得るのは専門家と非専門家の双方である。
研究をしていると、自分の「言語ゲーム」に閉じこもりがちになり、かえって自分の研究の意義がわからなくなってくる。その意味では、非専門家との読書会は、専門家にとってこそ「意義」があるのだと思う。
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