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はじめまして、皆川淇園

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勝冶真美が弘道館メールマガジンのために書き下ろした、皆川淇園を知るための、やさしいコラム。ヘッダー画像は、谷文晁による淇園のポートレイトです。 (東京国立博物館 http://w…
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医学者も多かった、淇園の門弟たち

 『皆川淇園とその仲間たち』 第13回 儒学者・皆川淇園が1806年に設立した学問所「弘道館」。  そこに通い、学んだ門人は名前が分かっているだけでも1300人を超え、一説には3000人とも言われています。淇園の門人には医学に関わるものが多いのが特徴で、「最後の儒医」と言われる百々俊徳(1774~1839)、上方蘭方医の祖・小石元 俊(1743ー1808)らも淇園に学んでいいます。典薬寮医官(官人への医療や医療関係者の養成、薬園等の管理を行う)・北小路貞隆の養子で儒学者で

分野横断ネットワークの人、淇園

 『皆川淇園とその仲間たち』 第12回 今回は、現代のお話し。最近行政の文化課の方と伝統文化の振興についてお話する機会がありました。日本の文化は元来、今でいう産業、芸術、文学といった分野ごとに区別されることなく人々の中にあったからこそ日本独自のユニークな文化が生まれてきたのでは、という話の中で、 行政としては産業課、文化課と分かれてしまっているので、そういう支援の仕方は難しいということでした。  行政の枠組みとしての可否はともかく、今こそ、民間で皆川淇園が築いたような分野

浪速の知の巨人・木村蒹葭堂との交流

 『皆川淇園とその仲間たち』 第11回 前回は、古銭収集というマニアックな趣味を持つお殿様、朽木昌綱をご紹介しました。その朽木昌綱も皆川淇園も足しげく通ったのが文人、木村蒹葭堂 (きむらけんかどう/1736ー1802)です。  木村蒹葭堂は、詩人、作家、学者、医者、本草家、絵師、大名とさまざまな顔を持つ「浪速の知の巨人」です。10万冊ともいわれる膨大な蔵書を所蔵していた彼の元には、多くの文人、知識人が集い一大文化サロンを形成しました。死後、彼の蔵書は 一部散逸していますが

淇園サロンから広がる、変わり者の輪

 『皆川淇園とその仲間たち』 第10回 今回は、淇園と同時代に生きた丹波福知山藩の第8代藩主、朽木昌綱(くつきまさつな/1750ー1802)を紹介します。淇園も相当な変わり者だったはずですが、この朽木昌綱もなかなかの人だったようです。  13歳頃より和漢の古銭の収集をはじめ、その後はヨーロッパ紙幣にまで手を広げたという、いわゆるコインや紙幣のコレクターでした。その情熱は相当なもので、38歳の時には17~18世紀のヨーロッパ紙幣をイラスト入りで詳細に図説した「西洋銭譜」を著

言語研究で捉えた、実字虚字助字の構造

 『皆川淇園とその仲間たち』 第9回 皆川淇園は彼の唱えた「開物学」にもみられるように、言語研究においても大きな功績をのこしました。言語を構造的に捉え、 実字、虚字、助字、という三つに分類しそれぞれの役割について考察しています。  実字とは、具体的な何かを表す字(例えば犬・川・人など)、虚字とは実在の 物事を表さない字(例えば走、生、高、低など。主に動詞・形容詞・副詞)、助字は実字、虚字を助ける字で漢文にみられる也・焉・哉・乎・於・之・而などのこと。  特に助字について

淇園が賛をしるした「竜の骨」(?)

 『皆川淇園とその仲間たち』 第8回 今回は淇園の一風変わった逸話をご紹介します。文化元年、近江国滋賀郡南条村の農民が竜の骨を掘り出しました。  農民はこれを膳所藩主に献上。その地名を「竜谷」と改めます。翌年、藩主は淇園に竜骨の詩を求め、その図を写生することを相談します。そこで淇園は友人の画師上田耕夫と膳所に赴き、耕夫に写生をさせ自身は賛をしるします。  「龍骨之図」としてみることができるその図は確かに龍の頭部のよう。もちろんこれは実際には龍ではな く、トウヨウゾウ、も

四条円山派と淇園の縁を忍ばせる掛け軸

 『皆川淇園とその仲間たち』 第7回 京都の夏の風物詩といえば祇園祭。2014年は150年ぶりに大船鉾の復興、49年ぶりの後祭の復活と大いに賑わいました。有斐斎弘道館でも茶会 「祇園会の茶」を開催、祇園祭のしつらいで楽しんでいただきました。床には、木瓜紋の旗をさした3人の人物が描かれた軸を。  これは歌川豊秀、 吉村孝敬、松村景文の合作、という珍しいものです。豊秀は大阪の浮世絵師。滑稽本、洒落本の挿絵を描きました。吉村孝敬は円山応挙の晩年の弟子で、応門十哲のひとりにも数え

琳派の時代の京都に思いを馳せて

『皆川淇園とその仲間たち』 第6回 淇園の学問所跡で、現代における学問所として活動を行う「有斐斎弘道館」に、先日新たに伝酒井抱一の屏風が収蔵品に加わりました。酒井抱一は 江戸琳派を大成した絵師で、1761年生まれ。淇園(1734年~1807年)より少し時代がさがるものの、ほぼ同時代に活躍しました。  琳派 といえば、2015年は琳派400年の記念年にあたり、京都でさまざまなイベントや展覧会が開催されました。有斐斎弘道館 では、一足早く、琳派をテーマに京都の伝統文化のひとつ

江戸のアンデパンダン、書画会を主催

 『皆川淇園とその仲間たち』 第5回 皆川淇園は、1972年から、「東山新書画展覧」という書画の展覧会をプロデュースしています。春と秋に開催されたこの展覧会は、誰でも出品 でき、絵の優劣を公平に世間の目にさらすことで書画の振興を図ろうとしたものでした。実際に京都の主要な画家はこぞって参加していて、毎回 200,300点もの作品が出品されていました。長沢芦雪、丸山応挙らも出品していました。  近代の日本における展覧会の走りともいえるもので すが、今で言うとさしずめアンデパン

奇想の画家・長沢芦雪と豪遊!

 『皆川淇園とその仲間たち』 第4回 皆川淇園において特筆すべきことのひとつは、彼の幅広い交友関係です。丸山応挙や与謝野蕪村等、当時一流の文化人たちが淇園のもとに集っていました。  その中でも特に長沢芦雪は淇園と深い交流があったと伝えられています。芦雪は2011年にMIHO MUSEUMで大規模な展覧会が開催されるなど、近年評価が高まっている画家です。縦横無尽な筆遣い、画面にも現れる彼の自由闊達さが魅力で、私も好きな画家のひとりです。芦雪のそんな自由人なところが気に入った

「名」と「もの」の関係性を音から探った

 『皆川淇園とその仲間たち』 第3回 皆川淇園は「開物学」という学問を創始したことでも知られています。しかし「怪物学」と揶揄されたように、難解すぎたその理論は当時も一般に理解されたとは言い難いようです。  開物学は「名」と「もの」の関係性を「音声学」や「韻学」の観点から明らかにしようと試みるものでした。例えば「仁」ということばが示す意味は 「仁」ということばそのものの中に隠されていると考え、ことばの意味とその発音との間の相関関係に着目しました。その独創的な理論は明解な体系

応挙にも劣らぬ書画の達人だった

 『皆川淇園とその仲間たち』 第2回 有斐斎弘道館は皆川淇園が設立した学問所「弘道館」址にあります。でも皆川淇園って歴史の教科書にも出てこないですよね。そもそも何者なのでしょうか。  皆川淇園(みながわきえん)は、京都で1734年に生まれ、1807年に亡くなりました。江戸時代中期にあたります。儒学者(中国の孔子を始祖と する思想体系。日本では武士の学問として広く受け入れられた)であった淇園は亀山藩(現在の京都・亀岡)、平戸藩(長崎・平戸)、膳所藩(滋賀・ 大津)に藩の先生

箏曲の作詞家でもあった皆川淇園

 『皆川淇園とその仲間たち』 第1回 皆川淇園(みながわきえん)は江戸時代の儒学者です。「有斐斎弘道館」の地で学問所「弘道館」を設立した人で、儒学者としてだけではなく、書画にも優れた風流人でもあったと言われています。歴史に疎い私にとっては、大河ドラマにも出てこないし、どんな人だったのかイメージしにくいなぁと思ったりします。  そんな「知る人ぞ知る」皆川淇園ですが、筝曲の作詞家としての顔もあったそうです。今回は皆川淇園の作詞した地歌筝曲を一曲ご紹介します。   夜々の星