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その25:新型コロナウイルス感染症1周年

 昨年の2月26日、イギリス・ノッティンガムからマーク・タッカーとダニエルが来日し久し振りに稽古をした。彼らは翌日から数日京都と大阪方面を観光し関西空港から帰国した。感染者がそれほど多くなかったから外国人旅行者も沢山各地にいたと思う。そういう意味ではマークとダニエルは、記念すべきギリギリの日本旅行だったと言ってよい。以来コロナ禍は丁度丸1年過ぎた。

 3月1日から2週間の休館措置を取り、その2週間は稽古を再開した時のために、防具を持ち帰って綺麗にする期間に当てた。しかし、3月14日から土・日のみの稽古とし、素振り・日本剣道形・古流の形等防具を着けず、稽古着・袴にも着替えないで実施するという前代未聞の稽古となった。4月の緊急事態宣言発出によりやむなく一時中断されたが6月から今日までこの稽古を行っている。途中、木刀で古流の形から選んだ技の素振りや稽古、防具を着けて竹刀で切り返しや各種技の稽古を行ったが、私を含めて館員の大半は今日まで地稽古を一度もやっていない。この1年間剣道界は、このようなことが今までなかったことなので慌てそして動揺した。多くの行事は中止または延期となり、コロナ禍はいつ終息するか分からない状況である。

 しかし、私は全く慌てなかった。今まで考えていたことをそのまま実施したのである。コロナが流行する前年の令和元年(2019)、69歳の6月末日にすべての役職を辞任していた。それは70歳から私自身のための稽古法を実験する計画だったからだ。それが『盈進流稽古法』である。コロナ騒ぎがなかったら、一人でこの稽古法を行っていたはずである。

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 「人間万事塞翁が馬」とか「禍福は糾える縄の如し」という諺がある。人生における幸不幸は予測しがたい。幸が不幸に、不幸が幸にいつ転じるか分からないのだから、安易に喜んだり悲しんだりすべきではないという意味である。

 この1年間、私達は限られた時間を有効活用した。まず、20代から稽古して来た四種類の古流の形を研究したことは有意義だった。また最近では、日本剣道形は昇段審査の前にちょっとだけ行うようだが、江戸時代に五百を超えると言われる流派の形の集大成だとすれば疎かに扱ってはならない。それらの形を行いながら、選び出した技の木刀での素振りや技の稽古を徹底的に行ったので多くのことを学んだと思う。人が何と言おうと、まずはやってみようというのが私の意図だった。

 コロナ禍の中での『盈進流稽古法』は、正に上記の諺に当たるのではないだろうか。防具を着けて切り返し、基本、打ち込み・掛かり稽古そして地稽古ができない状況が「不幸」ならば、日本剣道形、古流の形や古流から選び出した技の稽古は「幸」である。その「幸」を1年間休まず稽古した結果、得られた技術や足捌き・体捌きは体幹や丹田を鍛錬する稽古として実に効果的だった。将来必ず光を放つだろう。

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 11年前、『剣窓』に「人生に無駄はあるか」というコラムを書いた。これは「人間万事塞翁が馬」とか「禍福は糾える縄の如し」という、現在のコロナ禍の世の中にも通用することなので、関係ありそうな箇所をここで引用した。このコラムを書いた経緯は、5月の京都大会中に購入した対談形式の名著小林秀雄・岡潔共著『人間の建設』(新潮社)の中で、岡先生が「自然の進化」について触れた内容が剣道の稽古と共通するところがあると思ったのである。

 「自然の進化を見てみますと、やり損ないやり損なっているうちに、何か能力が得られて、そこを乗り越えることができる。何度も何度もやり損なわないとこれが越えられないなら、そうするしかない」(pp.58)

という一文に目を奪われたのである。私自身が随分やり損なったから心に響いたのだ。

 剣道では無駄打ちをしてはいけないというが、それが本当に無駄打ちなのかは打ってみないと分からない。打ち損なって一本にならない打突が、すべて無駄打ちかというと必ずしもそうとは限らない。これをしてはいけない、あれをしてはダメと禁止していたら委縮してしまって大きく育たない。盆栽ではなく、大自然の中の大木のようになりたいものだ。「理外の理」という言葉もあるように、修行時代の稽古は大いに無駄打ちをしたらよいと思う。ただし、思い切った捨身の無駄打ちを出すことが大事だ。思い切った捨身の打ちは、決して無駄にはならないはずである。

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 無駄ということで思い出すのは、10代の終わり頃、稽古をしている時以外は寝転がっていた私を見て、父は「剣道をする者は本を読め。本を読んで教養を身に付けろ」と言った。私は本を読んでも剣道は強くならない。本を読むことなど無駄なことだと思って言うことを聞かなかった。ところがそれから30年後、50歳の時に重い腰痛症になり歩くことができなくなった。医者は歩けないのに歩けと言う。初めの内は、5分くらいで行ける所も、杖を突いて20~30分も掛かってしまう状態だった。3年半の間、毎日1時間歩き、散歩のついでに本屋に立ち寄っては本を買って読んだ。昔父に言われた「本を読むこと」しかすることがなかったのだ。

しかし、今にして思えば正に「怪我の功名」で、あの3年半が人生で一番本を読み、そして多くのことを学んだ。腰痛症になったのは辛かったが、神様が私に考える時間を与えてくれたのかもしれない。腰痛症という「不幸」が、考える時間という「幸」を与えてくれたのである。この1年間も高齢者は外出自粛で、埃をかぶった本棚の本をかなり読んだ。

 前後するが、35歳の時、誰もが忙しい年代だし、やっていることが何の役に立つのか思い悩むことが多かった。野間道場からの帰り、車の中で師匠である山内冨雄先生に、「仕事が忙しく、稽古する時間が取れない」と思わず愚痴をこぼしてしまった。先生は「人生で無駄なことなんて何一つないよ。たとえその時は無駄だと思っても、後で必ず役に立つものだよ」と優しく笑っておられた。そのとき先生は72歳、今私は71歳。人の話を聞いて、そういう言葉が言えるかなあと腕組みしながら考え込んでしまった。

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 稽古は失敗ばかりで、ある意味無駄な打突の積み重ねである。しかし、それを無駄と思うかだ。一生のうちに一度使うかどうか分からない技を稽古するのは無駄だろうか。『盈進流稽古法』の中の「面摺り上げ面」や「面摺り上げ小手」のような難しい技を立合いで使うだろうか。もしたったの一度でも、その技を使えなかったために勝利を逃してしまうことを考えれば無駄ではない。そう考えれば、無駄だと思う技をとことん繰り返して、自分のものにすることが稽古だと思うが、どうだろうか。コロナ禍はまだまだ続くだろう。もっともっと無駄なことを積み重ねてみようと思う。皆さん、お付き合いの程よろしく。

令和3年(2021)3月1日
於松籟庵

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