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その21:剣道観=人生観

 私達は10代の半ばか遅くとも終わり頃には、自分の才能を見出し、それを磨きながら人生を送ろうとする。しかし、人の一生は何が起きるか分からない。一つの才能を見出して、それを基に一生を送ることができれば幸せな人生だ。

 しかし、順風満帆な人生などあり得ない。どこかで挫折することもあるし、病気や怪我をすることだってある。窮地に追い込まれて身動きが取れないこともあるかもしれない。そういう時、どう対処したらいいのだろうか。これはその人の人生観が大きく左右すると思う。私はすべて剣道理論で解決してきたが……。

 人生観というものは、いつ・どこで・どういう時に作られるのだろうか。人生を深く考えるのはどういう時か、そしてその目安は何だろうか。思い当たるのは、

①    生まれ育った国や国柄
②    生まれ育った地域(環境、風景、土地柄、習慣、地域の祭り等)
③    家族、友達、師、学校、仕事
④    運命的な出会い
⑤    突発的な事故や怪我、そして自然災害

 一つひとつが何らかの形で影響を及ぼしていることだろう。

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 私の場合を振り返ると、人生観の確立が先か、剣道観が先かいつも自問自答するのだが、どうも剣道観が先だったような気がする。高校卒業する時、剣道を志すと心に決めた。さらに大学2年生の夏休み、父に連れられて文京区音羽にある講談社野間道場に入会した。この時私の剣道人生が大きく変わったと思う。

 最初に挨拶したのは、我が国剣道界の最高峰範士十段持田盛二先生だった。師範室では正面に座らず、向かって左側に端座しておられた。何故正面ではなく左側なのか今でも分からないのだが……。

 その日から休みの期間中毎日通った。持田先生には一番早く面を着けて並んだが、年配の先生先輩方が沢山いて、「君が持田先生に掛かるのはまだ早い」と言われ、並びながら30分間持田先生のお姿を毎回仰ぎ見るしかなかった。11月半ば一度だけお願いしたことがあったが、わずか2分間の稽古だった。今日も無理かと思いながら、並んでいた列から移動しようとしたら先生が、「オザワ君」と手招きされてドキドキしながらお辞儀をして蹲踞をした。あとは何も覚えていない。この2分間は私の宝物として心の中にしまってある。

 翌年から稽古はされなくなり、エンジの背広に身を包み、ネクタイをきちっと締めて、いつも椅子に座って優しい眼差しで見ておられた。8時になると終了の合図の太鼓を打ってその日の稽古が終わった。大学生時代、野間道場には3年間通い、卒業の時に本物の剣道を目指すと心に誓って社会に出た。この3年間で私の剣道観が確立したと言っても良い。もちろん、大学の剣道部でも稽古に励み、師範の先生方や上級生や後輩との稽古も忘れることがない。

 上位の先生に掛かるときの掛かり方などは、あのようにするのだなということも覚えた。とにかく一生懸命上位者に掛かること、ごまかして打ってやろうなどと思うと、直ぐに見透かされ、山内先生に「そんな稽古じゃだめだ。大木に体当たりする勢いで打ち込んで行け」と教わった。「山川の 瀬々に流れる 栃殻も 身を捨ててこそ 浮かぶ瀬もあれ」と捨身の精神を叩き込まれたのである。

 私にとっての人生観は、ものごとの良し悪しやイエス・ノーを判断する時の基準となって行動の目安や選択に現れている。それはすべて剣道から学んだことである。

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 野間道場では、父から「佐藤卯吉先生、小川忠太郎先生、そして望月正房先生が来ていたら必ず掛かれ」と言われていた。佐藤卯吉先生は「突き」が主体の稽古だったが凄まじい「突き」だった。最初は「突き」が怖くて腰が引けた面を打って行ったが、そのうち慣れてきて「突き」そのものが怖くなくなった。小川忠太郎先生には何と言っても切り返しと掛かり稽古だった。面を打つために振り被る腕が上がらなくなる程掛かり稽古をしたあと、「一本勝負」と言われて面を打っていくと切り落としか、擦り上げ面で、また掛かり稽古と切り返し。一本勝負は数秒だった。何しろ20年間その稽古だった。でも、36・7歳の時に、「博さん、良くなったよ」と言われて気を良くしたが、「そうかなあ。前と全然変わってないのではないかなあ」と首を捻ったものである。

 望月正房先生は手の内が柔らかいだけではなく、身体全体も柔らかい感じがした。何本打って行っても応じられた。途中、苦しくなって呼吸が乱れたので整えようとして下がりながら間合いを取ると「片手突き」や軽く「半面」を打たれた。打たれたというよりも触られたという感じだったが、私の上体は後ろに仰け反って完全に「死に体」になっていた。父が亡くなって2ヶ月後に望月先生も亡くなった。

 その頃には野間道場に入会して23年経っていたが、望月先生には23年間一本も有効打突を打ったことがないことに気が付いた。先生が亡くなってもう28年過ぎたが、「すごい先生だったなあ」と驚嘆するばかりである。持っている技を全部使って打ち込んで行ったが、すべて応じられたのである。野間道場には個性豊かな先生がたくさんおられた。入会したての時、私は19歳、先生方は70~80歳。どうして打てないのか不思議でならなかったが、私もその年齢になってしまった。

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 私は学校の勉強は得意ではなかったが、剣道だけは大好きで長続きしている。好きなことは続く。自分で選んだ研究や剣道のように一つのことを続けることは得意だ。面白いことを自分で見付け、楽しんでやると長続きする。楽しければ続けられるのである。

 それが剣道以外は、原稿用紙一日5枚を書くこと。理科大で新任当時の教養主任はI教授だった。運命的な出会いというのはこういうことか。35歳以上離れているし、立派な業績を残しているのに、少しも偉ぶった所がなく私の頼みにも気さくに応じて下さった。さらに、論文の書き方も丁寧に教えて下さったのもI教授である。47年前のメモは、まだ私のシステム手帳に挟んである。I教授の「静かに、優しく」はもう一つの人生観でもある。

令和3年(2021)1月21日
於松籟庵

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