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その20:三つの宝(2)

 私は70年の人生の大半64年間剣道を修行した。そのことによって人生の意義をかなり大きなものにした。剣道そのものは、『松籟庵便り(15)』で説明したように、日常生活とは大きく掛け離れた動きの連続で、教えて貰わなければ生涯使うことがない動きである。礼儀作法以外は、今の時代に生きるために必要なことだとは決して言われないものだと思う。それを何十年も修行しているのは、端から見れば異様なことと言っても不思議ではない。そういうことを64年間続けて来て一番幸せに思うことは「友」を得たことである。中学で3年間、高校で3年間、大学で4年間、体育系部活の剣道部で13歳から22歳までの心と体の成長期、ただ学校に通っていただけだったら恐らく無味乾燥だったに違いない。

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 私の大学時代は、1968年から1972年で終戦後25年前後、ある意味で時代の転換期だったような気がする。70年安保、そして1970年11月25日三島事件があり、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で三島由紀夫が割腹自殺をした。その日何故か羽生に帰郷していて、高校時代の剣道部仲間と一緒に炬燵でミカンを食べながら、バルコニーで演説する三島の最後の姿をテレビで観た。

 話は前後するが、私は1969年7月末に野間道場に入会した。翌年の冬から週に一度の割合で、三島由紀夫が野間道場に現れて稽古を始めた。あまり上手ではなかったが、有名な小説家だから一度稽古したいと思っていた。しかし、大学2年生の四段が野間道場で元に立てるはずがない。そうかと言って、下から懸かるにはそれほどの腕前ではない、と横目で見ているしかなかった。そのうち道場に現れなくなって、11月の事件を迎えたのである

 また、学生運動(全共闘から大学紛争に盛り上がった世代)の真っ只中だったが、体育大学の性格上ほとんどそういう動きはなかった。極めつけは1972年2月28日、卒業式の4日前に「あさま山荘事件」があったが、私は合宿所の食堂にあったテレビを剣道部の仲間とお茶を飲みながら観ていた記憶がある。いつも剣道仲間と一緒にいたから、集まるとそういう話題で盛り上がる。

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 私達はむしろ、他大学の学生が機動隊に追い払われて私達の大学に逃げ込んで来るのを迎え撃つ側だった。夜になると他の運動部と交代で順番に、皆が竹刀か木刀を持って大学の周囲を回って警備した。何時頃だか忘れたが(夜中の12時に近かった)、大きく握った「握り飯」2~3個食べ、温かいお茶を飲んで解散して合宿所に戻った。

 他大学の多くは学内封鎖で授業がなく試験の代わりにレポート提出だったし、剣道部の活動も構内立ち入り禁止状態なので稽古もしていなかったようだ。しかし、私達はそういうことがなく、学内の道場で稽古は普通通り行われた。稽古は真面目にやったが、日常生活は普通の学生らしく自由奔放だった。お茶の水や神田界隈はいろんな大学があったので大変だったと後から聞いたが、世田谷の深沢周辺は静かで何も起きなかった。

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 卒業以来50年間変わらず付き合っている友は、熊本の川口茂君(K)と北海道の仲野英司君(N)、そして何と言っても同期の中でも一番の兵(つわもの)重松正寛君(S)である。Kとは週に2回曜日を決めて電話で剣道談義をしているし、Nとは何かあると必ず電話が掛かって来る。Sは、北区に自宅があるので中野には車で15~20分という目と鼻の先。興武館にも時々防具を持って顔を出してくれる。(君付けして書くと、何となくよそよそしいのでアルファベットにした。)

 Sとは1年生の時に学生寮で同室、2年生の時こそ剣道部の合宿所と学生寮とに離れたが、3・4年生の2年間合宿所でまた一緒になった。おまけに4年生の時は同室だった。ルームメイトと言うと聞こえはいいが……。合宿所は世田谷の古い民家を借り切った建物で、私達の部屋は母屋の裏手にあり「番外地」と呼ばれていた。昔の農機具小屋を改造したあばら家だった。卒業して2~3年後、Sと2人で「懐かしい『番外地』へ行ってみようじゃないか」と行ってみたら犬小屋になっていたのでびっくりした。「俺たちはここで生活していたんだよな」と苦笑した。あの頃のことを思い出すと、どんな所でも住めると思う。

 こういう話題になるといつも不思議に思うのだが、学生時代にたった4年間一緒に過ごしただけなのに、どうして50年もの間仲良くできるのだろうかということだ。まさに、小泉先生が言う「宝」に違いない。

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 合宿所というのは、プライバシーなどというものは皆無と言っていい。Sとは四六時中一緒に行動した。講義も同じ科目を選択した。だから何でも言い合える関係だったし、秘密にするものなど何もなかった。親から仕送りが来れば、「俺の物は俺の物、お前の物も俺の物」。お互いにそう思っているから仕送りは共有財産という意識だった。たまにアルバイトに行って稼いで帰ると、東急大井町線の上野毛駅か、等々力駅近くで串に刺した焼き鳥かおでんを突っ突きながら一杯飲み屋で飲んでしまえばそれで終わりだ。でも何とも思わなかったし、そんなことは当たり前だと思っていた。合宿所には、2・3・4年生が35~40人くらい共同生活をしていた。皆仲が良く、言いたいことを言い合いながらも喧嘩一つなく暮らしていた。各人が自分の世界を持ち、入学した時から「教員になる」という目標を持っていたから授業と稽古以外は自由だった。それにプライバシーはなかったが、他人の世界に無理に立ち入ることをしなかったのが良かった。

 たまの日曜日には渋谷や自由が丘に出掛けることがあった。その時の服装は、下着と靴以外はすべて仲間からの借り物で、ファッションとしては実にアンバランスだったことだろう。着る物があればいいという程度で、お洒落をすることなどまったく考えていなかった。頭髪にしても、当時の大学生は肩まで来るくらい伸びた長髪が大流行だったが、私達はスポーツ刈りか、伸びても耳に触れると気持ちが悪いので刈り上げていたくらいだ。

 ああ、50年前のあの頃が懐かしいなあ! 

 因みに、『練習は不可能を可能にする』を増野さんが寄付してくれたので、道場の本棚に常時置いてある。この本は、スポーツを愛する小泉信三先生が書いたスポーツマン必読の一冊である。

令和3年1月11日
於松籟庵

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