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その18:三つの宝(1)

 10年以上前に購入した本を引っ張り出して久し振りに読んだ。元慶応大学塾長小泉信三先生の著書『練習は不可能を可能にする』である。私自身は剣道をただ一生懸命励んできただけだったので気が付かなかったのだが、「スポーツが与える三つの宝」を読んでまさにその通りだと思った。ここでは、剣道はスポーツか、武道かということは、またの機会にして、先生の文章を要約して記して行くことにする。

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 三つの宝の第一は、練習によって不可能だと思うことを可能にすることができると言うのである。水泳を習わない者は水に落ちれば死ぬ、水泳を知っている者は浮かぶ。その他無数の不可能が練習によって可能になる。これは真理だと言っている。練習と稽古は同じような内容で使っているが、剣道では「稽古」つまりもう少し深くて「古(いにしえ)を稽(かんが)える」という意味がある。

 私達は初めて竹刀を持った時のことをもう覚えていない。ところが、入門したての子供達を見ると、「自分も昔はあんなふうだったのか」と思う。そういう子供達の姿を見ると、「教えて下さった先生に感謝しなければならないなあ」と反省する。一から手解きをして下さった先生の忍耐強さに感謝である。

 お父さんやお母さんにしても、我が子を見て「何やっているんだ?」と思うだろうが、子供達は必死だ。しかし、1・2ヶ月を過ぎると何となく様になってくるから不思議である。練習の「習」という字は、「羽の下に白」と書いて、雛鳥が羽ばたいて飛翔を習う形を表しているのだそうだ。この練習によって私達の能力が高められ、不可能が可能になっていくのである。一つの事を繰り返して心身をそれに慣れさせ、今まで不可能だったことを可能にしていった証しなのだ。

 第二の宝は、防具を着けて試合ができるようになると一対一の対戦になる。そこで大切なのは、フェアプレーというか武道精神である。正しく戦い、どこまでも勝負を争い、卑怯なことをするな、不正なことをするな、無礼なことをするなということである。剣道では全力を出し合って戦うことが相手に対する礼儀なのだ。果敢に戦って負けた時は潔く負けを認めて、最後は私の隙を打ってくれたことに感謝する意味できちんとお辞儀をする。「礼に始まり、礼に終わる」。その負けを反省し、勝った者も慢心しないで、更にまた一心不乱の稽古が始まるという終わりがない修行形態で、これを小野派一刀流では、「循環無端」、あるいは柳生新陰流では「三磨之位」と言う。

 第三の宝は友である。同じ時期に、同じ道場で修行した友だ。何を言い合っても誤解しない友、何でも言える友、喜びを分かち合った友、苦しみを分かち合った友、そういう友を得たことは生涯の宝である。私達の心に持つ良きものは良き友を得て成長するものである。厳しい稽古を共にした友、一緒に試合に出た友、あるいは敵味方となって戦った相手の剣士達も、最も大切な剣友となりうるのである。

 ただし、稽古は決して楽なものではない。努力と忍耐を必要とする。つまり努力と忍耐を嫌う者には真剣な稽古はできない。稽古によって身体的能力だけではなく、精神的能力まで高められるのである。ということは、稽古嫌いや怠け癖のある人はなかなか向上しないということだ。寝ても覚めても剣道のことを考えるとか、ある意味愚直なまでの努力と忍耐が必要なのである。

 ノーベル賞を受賞した福井謙一先生が、旧制高等学校時代に剣道部に所属して鍛えたことを知った私はインタビューを申し込んだ。「高校に入り迷わず剣道部に入った。私の高校時代の思い出は、剣道に打ち込んだ思い出だけであとは何も覚えていない。高校の頃の勉強の思い出は剣道のあの掛け声と稽古着に染みた汗のむせ返るような臭いの彼方に、すっかりかすんでしまうかのように見える」。

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 今年5月の連休中、本来ならば京都大会の真最中でテレビを見るどころではないのだが、今年はコロナのために中止になった。久々の連休を自宅で過ごし何もすることがないので寝転がってテレビを観ていた時のこと。ロシアで最高のバレエスクール校長の言葉が印象に残っている。

 「基礎は教えた。あとは自分が努力するだけだ。情熱を持ち、全力で努力すること。自分の能力を伸ばせるのは自分だけなのだ」。

その言葉を聞いて思わず飛び起き自分のことを考えた。

 「頑張るぞ!」というのは、その人の心がそうさせる。健康に気を付けて、その気になれば一生続けることができる。心が挫けたらそれまでだが……。15年前に西善延先生(その時87歳)は、「小澤先生、剣道は70歳になっても伸びますよ」と励まして下さった。70歳を過ぎても新しい発見があるはずである。剣道は本当に奥が深いと思う。

令和2年(2020)12月27日
於松籟庵


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