【メモ】 「being」で生きるか?「doing」に生きるか?

2020.02.07

最近、更新のペースが早い。

久しぶりにモーニング・ページ(ノート療法)とか、アーティスト・デートもどきを始めているので、自分の内側から出したい考えも自然と生まれているのだろう。

多くのものは自分の手物にある100均のA4ノートに書き出せばそれで気が済むのだが、たまにA4ノートに吐き出すだけでは納得できなくて、頭の中で回り続けてしまう言葉や概念が出てくる。

そういったものをnoteにさらす作業をする。

noteにさらすときには、どうしても「考えの道筋をまとめる作業」が必要になるので、自然と「もやもやした妄想が整然とした考えにまとまる」という効果が得られる。


① 生活の糧を得る方法を「being」と「doing」に分ける

「どうやって生活の糧 = 生活費を得るか?」

これは、お金を稼ぎたい!= より多くのお金がほしい、とは全く違う発想だ。

そして、人間として生きる限りは、一生つきまとう悩みでもある。

だから、この問題について考えることを無視することはできない。


ここでいきなり、
「ではどんな仕事がいいだろうか?」と考え始めてしまうのは、僕は早合点だと思う。

その前に、ある考え方を身に着けておく必要があるのではないか?

それは、
「being = 〇〇であること」によって給料をもらうのか?
「doing = 〇〇をすること」によって給料をもらうのか?

ここを見誤ると、大変なことになる。

いろいろな例で考えてみる。

1. アルバイト

身近なアルバイトはどうだろう?

肉体労働はいわずもがな、いろいろ雑務が多いコンビニ店員、居酒屋の店員なんかは、実際に行動した仕事に対して時給・日給が支払われる。
もちろん仕組みとしては、業務に従事した「時間」に対して対価が支払われるわけだが、彼らが時給に見合うような業務を実際にすることで物事が進む。
逆に、業務を怠ったりすると、現場の作業が進まなかったり、お店の運営に直接的に支障をきたしてしまう。
問題が長引けば、解雇されるリスクもあるから、従業員側としても実際に行動する必要がある。

このように、実際の行動と給料が直接結びつくものを
「doing = 〇〇をすること」によって給料をもらう仕事

と定義してみよう。

だが、ちょっと待て。
"仕事しなくても時給が支払われるアルバイト"など存在するのか??
…答えは、ある。
正確に言えば、「doing = 〇〇をすること」と「being = 〇〇であること」
の組み合わせでお金が上乗せされている
、とでも言おうか。

例えば、僕が昔働いていた漫画喫茶。
ここはあまりに暇すぎて、全然お客が来ないこともしょっちゅうだった。
だから、良くないことではあるが、漫画の棚を整理するときとかに、ちらちらと漫画を読んでしまうこともよくあった。

先程の、肉体労働や居酒屋のように、実際の行動と給料が直接結びつく仕事と比較すると、漫画喫茶の場合はほとんど仕事していない場合が多い。
深夜のコンビニで、商品の棚だしが終わって暇している状態もこれに近いか。
この状態になると、「漫画喫茶の店員であること」「コンビニの深夜シフトの時間に店内に存在すること」によって時給が発生している。
これを、「being = 〇〇であること」でお金をもらっている、と考えてみるのだ。

時給制の場合は、時間あたりの金額は同じだから、
「お客が多い時間は、doing:being = 7:3」
「お客のいない暇な時間はdoing:being = 1:9」
みたいに、変動するという性質もある。

他にも、高学歴の人がやる家庭教師とか塾講師のバイト。
これも、「doing」と「being」で分けると、お金の仕組みがわかりやすい。
端的に言えば、彼ら彼女らは、
実際に指導する・指導の準備をする = doing
〇〇大の学生である = being

の組み合わせでお金をもらっているのだ。

だから、学歴がよくなるほど、beingの部分が値上がりしていくわけだ。
高学歴な学生が、学生の割にリッチな生活をしている背景には、
こういった「being」収入の要素もあることを指摘しておきたい。

2. 社会に出たあともそんな仕事があるのか?

これに関しては…完全に白黒つくわけではないのだが。

「being」の性質が強く出やすい仕事はあると思う。


ぱっと思いつきやすいのは、「税金から給料が払われる仕事」だ。
公務員とか、お役所の人々を批判する意図はないのだが、
こういった人々は「being = 公務員であること」でお金をもらっている。
仕事をしなかったら会社がつぶれてしまう、というわけでもないし。
業務態度が悪いだけで簡単に解雇できるという仕組みにはなっていないと思う。
だからこそ、各人の価値観・倫理観・奉仕の精神が問われる仕事なのだろう。

あと、国会議員とかね。
もちろん、多くの国会議員は「国民のため」「社会のため」に仕事をしている。
その意味では、「doing」によってお金をもらっているといえる。
だけど、一部には、「国会議員で有り続けること」を目的に仕事をする輩もいる。
こういった人は、「being = 国会議員であること」によってお金をもらっているわけだ。

3. 「being」の本質 = 貴族・寄生虫


このあとは、
「パート4」でbeingであることの弱点を書きつつ、
「パート5」では、「やりたいことがない状態は無意識的に『being』を目指しがちになるから気をつけよう」という話を書く。


その前に、こういったbeingの本質とはなんだのだろうか?

僕は、それは「身分」であり、
「being」で生きている人は「現代の貴族」なんだと思う。

「貴族」、と言われると、なんだかとてもいい御身分になった気になる。
(貴族だけに)

では、嫌な言い方をしてみよう。
貴族とはすなわち、「社会に寄生して養分を吸い取って生きるもの」だ。
「寄生虫」、と言われると、正直勘弁してれ、と思わずにはいられない。
(虫を見るような目で見ないで)


4. 「being」の弱点 = 働きたくない・変化に対応できない

「being = 貴族・寄生虫」という立場は、
この表現の嫌さを除けば、ただ存在するだけでお金がもらえるわけだから、
結構魅力的だ。


では、「being = 貴族・寄生虫」であることの弱点はなんだろうか?

まず、最大の弱点の一つが、「正直、働きたくない」ということ。
そりゃそうだろう。何もしなくてもお金が入ってくるわけだから。
だから、being = 貴族的・特権的な職業であることにしか意味を見いだせなくなると、何か業務を振り分けられると、それはただただ苦行でしかなくなってしまう。

「生存するためだけに、やりたくないことを延々とやる…」
これをうらやましいと思うのか?
こうやって表現されると、僕の価値観としては「それは嫌だな」と思ってしまう。


もうひとつの弱点。
それは、「時代や社会の変化に対応できない
ということ。

2021年の現在、社会が変化するスピートは指数関数的に速くなっている。
江戸時代とか、戦後の昭和時代と比較してももちろんそうだろう。
だが、僕が幼少期を過ごした90年代、思春期を過ごした2000年代と比較しても、変化が速すぎてついていくだけでも大変だ。

being = 貴族・寄生虫」であることには、行動するモチベーションがない。
それゆえに、時代や社会の変化を意識して、それにうまく乗っていこう、という気持ちも失われてしまう。
そうしたときに最も問題になるのが、
時代や社会が変化して、貴族性・特権性が剥奪されるリスク」だ。

例えば、公務員も成果型にして、業績とか態度が悪い人は解雇できるようにしよう!
という社会になるかもしれない。
他にも、大学の教員も終身雇用制は減らしていきましょう!となる可能性もある。
(ちなみにこれは現在進行系で強烈に進められている)

つまり、
「being = 〇〇であること = 貴族的・特権的・寄生虫的」
ということは、
変化が速くてこの先どうなっていくかがわからなすぎる時代・社会においては、ゆるぎない安全圏というよりは、滅んでしまうリスクを抱えた危険な状態、

といえるのだ。

5. 「やりたいこと」がないと、無意識にbeingを目指すから気をつけよう

なぜ、長々とbeingとdoingについて書いてきたかといえば…

もちろん、「やりたいこと」とか「価値観」に絡めた話をしたいから。

少し頭に映像をイメージしてもらいたい。
今、自分はお寺や神社の長ーい石段を登っている…
下を見れば、始まりの一段目はもう肉眼で確認することはできない…
ところどころ、平らな休息所はあったけど、その休息所に長居することはできなくて、また長ーい石段に戻されて、登り続けている…
見上げたその先は、雲がかかって霞んで見えない…
この石段を登りきった先には、一体何が待っているのだろう…?

これは、人生における「doing」と「being」を比喩してみたものだ。
長ーい石段そのものが人生であり、
石段を一段一段登ることが「doing = 〇〇をすること」
途中にあった平らな休息所が「being = 〇〇であること」
だ。

さて、ここで自分に問いかけてみる。
「自分の人生では、この長ーい石段を登りきった先には、綺羅びやかな神社の社殿、あるいは理想郷のようなものが待っていて、今の自分はそこに向かって辛い石段上りを続けているのだ」
という意識がないだろうか?

頑張ったらその苦労が報われて、楽に過ごせる未来が待っている。
この思考そのものが、「being = 〇〇である」を求めてしまっているのだ!


小さい頃、「今頑張っておけば、後で楽になるよ
などと言われた記憶はないだろうか?
僕は、この言葉の意味は、
「頑張ってれば、楽に過ごせる世界にたどり着けるのかな?」
などと無邪気に思っていた。
でもそんなものは幻想なわけだ。

ならば、この言葉は間違っていたのだろうか?
実は、正しく解釈すると、この言葉は真実を突いている。
先程の、長ーい石段のイメージ。
無意識に、「この石段はずっと同じ角度で続いている」と思いませんでした?
実際には、「この石段は先に進むほど勾配が急になっていく」わけです。
言われてみりゃそうなんだよ。
子供のころより、青年期のほうが色々大変だし、それ以上に大人になったほうが大変なことが増える。

つまり、先程の言葉に補足を加えると、
「今頑張っておけば、後で楽になるよ」
→ 「今頑張って(鍛えて)おけば、後で(急勾配の階段を登るのが)楽になるよ」
というのが、正しい解釈なのだ。


…自分で書いてて、正直ちょっと絶望的な気持ちになるよ。
雲がかかって霞んで見えなかった石段のその先には、もっと急な石段が待っているだけなのだ。

だからこそ、
今、目の前の石段を一段一段登ることを楽しむ気持ち「欲求
この石段を登ることが、素晴らしいことなのだという感覚「価値観

ほしいものです。



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