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バランス?なんだそれ? ~ドミコ『猿犬蛙馬』で奏でられる非定形ロックの姿

日本人はスリーピースバンドが大好きだ。
とにかく多い。何らの基準に基づいてデータを取ったら明確な数字で示せると思うくらいだ。
トライセラトップス、10-FEET、UNISON SQUARE GARDEN、SISHAMO、ACIDMAN、グルーヴァーズ。挙げれば切りがないくらいにスリーピースバンドは日本に多い。一方、アメリカやイギリスにそれほど多くのスリーピースバンドはいない。

スリーピースの哲学

スリーピースバンドはロックを成立させる最少人数と認識されていると思う。ドラムがリズムを取ってベースが低音部を奏でる。ギターが和声を弾いて、バンドのうち誰かが歌う。
ベースがいなければ低音が鳴らなくなるし、ドラムがいなければロックらしいダイナミックなリズムは得られなくなる。ギターがいなくなったら歌を乗せるためのコードがないから音楽を成立させるのは難しくなる。

「最少人数」というのはそういうことだ。

最低の人数でソリッドな音楽を演奏するというのが、もしかしたら日本人の魂に響くものがあるのかもしれない。最小単位で戦う部隊のようなイメージを持つ人も多いんじゃないだろうか。要するに「カッコいい」のである。

ただし、ここには落し穴がある。スリーピースバンドは「三人という最少人数でできる限りのことをする」という一種の枠組みに入ってしまっているのだ。「三人だけで演奏する」からカッコいいのであって、サポートメンバーを入れた途端に言い訳がましくなる。だから、スリーピースバンドはスリーピースであることにこだわる。

「誰かが抜けたら音楽として成立しなくなる」という危ういバランスこそがスリーピースバンドの魅力であり、同時に制約でもあるのだ。

ツーピースバンドという異形の怪物

「ドミコ」は川越出身の「ツーピースバンド」である。ベースレスのバンドだ。多彩な音楽性を持っていて、「シューゲイザー」「サイケデリック」「ローファイ」「ガレージ」などを想起させるロックを奏でている。

ドミコの強みは「最初から決定的なものが欠けている」点にある。だってベースがいないから。人に聴かせる音楽としては明らかに不利である。だから逆に何でも取り込むことができる。アルバムでもライブでも、ドミコは常に「自分たちではない何か」を常にサウンドに潜ませる。ときに低音パートであったり高音のループサウンドであったり騒がしいノイズだったり、とにかく自由なのだ。

ドミコの自由さは、元からバランスが取れていないことから発している。バランスが取れていないところに何か異常な音を加えるから音楽性は多彩なものになる。このバンドについて語られる「中毒性」「クセのあるサウンド」「浮遊感」は、ツーピースバンドならではの「こだわりのなさ」が原点だろう。スリーピースの制約にハマる懸念がないのだ。何をやってもいい。「発想の転換」というのは案外こんなところにあるのかもしれない。

ドミコはライブでも超自由である。おすすめするのはライブ演奏の映像。ドラムの立ち位置が異常だ。ドラムの正面はギタリストに向いているのである。客席ではない。まるでドラマーとギタリストが「タイマン張ってる」ように見える。

これこそ、サムライスピリッツではないか?
ドラマーとギタリストとの真剣勝負には緊張感があり、かなりの興奮を呼び起こす。まるでコロッセウムで命を懸けて刃を交える戦士のようにも見える。

この楽曲が収録されたアルバム『血を嫌い肉を好む』(2021年)は、今までのロックの実験的な部分をてんこ盛りにして弩級のポップスで味付けした奇跡のようなアルバムだ。ぜひ一回聴いてみてほしい。




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