見出し画像

こらだになる

〈こころ〉と〈からだ〉は分けて考える。
これがデカルト以来の近代のスタンダードだった。

喉が痛いのは〈からだ〉の痛み。エアコンに当たりすぎたせいであって、誰かの恨みを買ったからじゃない。
失恋の痛みは〈こころ〉の痛み。外科手術では治せない。

〈こころ〉と〈からだ〉を別々のものとして世界を見渡すと、そこに秩序が生まれる。秩序のある世界はとても便利だから、わたしたちはそれを当たり前に受け入れて生きているというわけ。

これは今読み返している『居るのはつらいよ』の受け売りなのだけど。
近代科学というのは決して万能ではないので、〈こころ〉と〈からだ〉をすっぱり切り分けたらそれで万事解決というわけにはいかない。

心と体はいつでも分割されているわけではない。というか、ふだんはきれいに分割されているように見える心と体には、実際のところグニャグニャしたままの部分もある。
そのグニャグニャは、余裕がなくなり、追いつめられると、顕在化しやすい。嫌な人のことを考えたらお腹が痛くなることがあるし、緊張すると手先が震える。顔を叩かれたことで心までコナゴナになることがある。調子が悪くなると、心は体に容易に混同されてしまう。それらが混じった何かが現れる。

『居るのはつらいよ』

ここで、著者の東畑開人氏は、精神科医の中井久夫氏に倣って〈こころ〉と〈からだ〉の境界が溶けた状態を「こらだ」と呼んでいる。

恋をするとき、心だけが恋をするのではなく、心臓がバクバクとするみたいに、僕らは全身で恋をする。
そう、火種が燃え広がり、薄皮が焼け落ちてしまうと、こらだが現れる。

こらだは不便だ。こらだが現れるとき、自分で自分をコントロールできなくなってしまうからだ。こらだは暴走する。尿意を極限まで我慢しているときのように、僕らは自分のことが自分じゃなくなってしまったと感じる。こらだに振り回されてしまう。

同上

ああ、わたしが泣きたくもないのに「泣かされて」しまうのもまた、こらだの仕業だったんだ。

ついこの間のこの投稿。こんなことを書いた。

今日泣きながら思ったのは、わたしのなかの一番脆い部分が触れられることに抗っているんじゃないかなということ。
わたしがまだ整理をつけられていないグレーな部分に、わたしより先に踏み込んでくるなよっていう警告なんじゃないかって。涙を分泌することによってわたしの口を封じて、その部分を大事に守ろうとしているんじゃないかって。

泣きたくないのに涙が出ることありません?

絶対泣きたくないのに、〈こころ〉の底からは矛盾する危険信号が出ていて、〈からだ〉はそれに反応して涙腺をバグらせる。こらだの出現である。

あるいはそう、癇癪を爆発させて不合理な行動を繰り出す仕事場のあの子も、こらだになっているんだ。
物を投げても人を殴ってもいいことなんて何もないのに、それでも大暴れしてしまうのは。ダメだってわかっているのにそうしてしまうのは。近代科学が築き上げた秩序の隙間のカオスに落っこちて、全身で悲鳴を上げているんだ。


『居るのはつらいよ』の舞台のデイケアでは、こらだになりやすい人たちが集まっているという。

「心と体」を分かつ薄皮が燃え去りやすいから、誰かと共に「いる」ことを必要としている人たちが集まる。彼らは他者に開かれていて、そして他者を必要としている。
だから、あのときダイさんもシンイチさんも(注:デイケアの看護師たち)、メンバーさんの体に触ったのではない。彼らのこらだに触れていたのだ。……そうすることで、彼らの「いる」を確保しようとしていたのだ。バランスを欠き、コントロールを失ったこらだは、ほかのこらだと一緒にいることで落ち着きを取り戻すからだ。

『居るのはつらいよ』

こらだが現れたとき、いつでも他者との接触が有効なのかはよくわからない。
少なくとも泣いているわたしは放っておいてほしいし、癇癪の只中のあの子も体を抱えてもらうことで落ち着くこともあるけど再燃することもある。
もしかしたらわたしが無知なだけで適切な手法があるのかもしれないけど。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?