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訛らない・訛りたい・訛る・訛れない・訛ろう

訛る、は一種の恐怖だった。

訛りの薄い母と四六時中べったりだった未就園のころのわたしは、たどたどしいながらもキレイな日本語を話していたらしい。そういう意味ではわたしの母語は標準語だ。
それが、幼稚園入園とともに急変した。幼稚園というのは社会である。先生たちと、クラスメイトと。一対一の静的な二者関係が一変して、わたしをワンオブゼムにするごった煮のなかに放り込まれた。若き生命体は飛び交う言語をぐんぐん吸収して、そうしてついに父方の祖母に言われたのである。

「あんたもすっかり、いっちょまえに伊勢弁やなあ」、と。

小学校に上がる前のわたしの体を、ビビビッと電流が貫くような衝撃だった。いっちょまえと認めてもらった喜びではない。なにか大切なものを失ってしまったような、焦燥と不安、そして恐怖だった。ような気がする。
少なくとも、そのときにわたしは一つの規範を内面化したのだった。訛るのは品がない。

だれもそんなふうには言わなかったはずなのに、6歳にして深読みグセがすでに発露していたのか、あるいは自虐的なニュアンスを感じ取ったのか、母の期待を裏切ってしまったと思い込んだのか、なんだかわからないがそうなっていた。仲のいいお友だちと離れ離れで進学する不安が、わたしを掻き立てたのかもしれない。

幼稚園は社会だったが、小学校はより社会だった。背筋を伸ばして椅子に座って、まっすぐ前を見て先生のお話をよく聞いた。初めての担任の先生に、姿勢がいいですねって褒められた記憶がある。ほんとうは猫背なのに。
そしてわたしは、訛りを封印した。
母の話す言葉や、テレビで聞く言葉を意識的に使った。訛るのは恥ずかしい。大学で上京してから実はイントネーションが標準語と異なることに気づいたりもするのだけれど、なにがともあれ当時自分が知りうる、限りなく訛りのない言葉を話した。

わたしはずっと、訛りを否定した。
伊勢弁の勢力範囲の届かない土地に引っ越したときにも、上京してからも、今も。封印してからの方が長いし、親元も離れて久しいから、それはもはや積極的な否定を通り過ぎて馴染んでいる。ひとり言でもほとんど訛らない。

だけどわたしは一度だけ、その封印を解いたことがある。
伊勢弁の勢力範囲に一時的に舞い戻った、高校時代の1年半。わたしは訛るわたしを受け入れた。周囲の訛り方を観察して、そこから大きく外れないように調整しながら、でもしっかり訛っていた。小学1年生から多少は成長した自分を感じるとともに、ありのまま訛ることの清々しさを知った。わたしがわたしを受け入れると同時に、同じように訛る相手もわたしを受け入れてくれていることが心地よかった。訛り合うって、やさしい世界だ。

上京してから、そのまま訛り通してもよかった。
しかし、悲しいかな。エセ標準語慣れしたわたしの脳みそは、ホンモノの標準語を話す人たちを前にして訛りスイッチを完全に切り替えてしまった。訛り合いはできても、きれいな標準語に平然と訛り返せるほどの強靭なメンタルをわたしは持ち合わせていなかった。訛れないわたしに逆戻りした。

訛り合う世界のやさしさを知っているからこそ、訛りを封印するコミュニケーションに疎外感が募る。意思の疎通に支障はないけれど、どこかもっと深いところでの繋がりきれなさを感じる。一度は突き返した「訛るわたし」のアイデンティティを、喋れば喋るほど遠ざけてしまうような。

伊藤亜沙さんの『どもる体』に、この感覚を重ねる。
どもる体ならぬ「なまる体」を抱きしめて、わたしは今日も生きていく。


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