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牛乳パックを毎日読んでいたこと

幼い頃は、食事中の飲み物は牛乳と決まっていた。
強要されたわけではないし、なんなら母は「なんだか変よね」なんて呆れていたけれど、わたしときょうだいは好んで牛乳を飲んでいた。白いご飯を咀嚼したあとも、味噌汁を飲んだあとも、決まって牛乳を飲んだ。お茶がほしいとは思ったことがなかった。

思えば、学校の給食も牛乳がついてくるのが今も昔も定番だ。わたしは家でもそうだったから何の抵抗も感じなかったけれど、いつも牛乳を残す子がいた。牛乳嫌いなのかな、ぐらいにしか思っていなかったが、牛乳がというよりは和食と一緒に牛乳を飲むことが耐えられなかったのかもしれない。

そんなわけで、わたしは毎朝、毎昼、毎夕、牛乳を飲んでいた。風呂上がりにも飲んだ。牛乳は好きだった。
食卓にはいつも牛乳がパックで置かれていた。おかわり自由。
そんな環境だったから、わたしはいつも食べながら牛乳パックを読んでいた。「3.6牛乳」「Tetra Pak®️」「牛乳パックの開き方」…毎日毎日、同じ文字を読み続けていた。

活字中毒という言葉があるけれど、わたしの場合はたぶん文字中毒だ。
毎日飽きもせず牛乳パックを眺めていたのは、会話がつまらないとか食欲がないとかじゃなくて、ただただ文字を見ていたかったからなんだろう。
それだけじゃない。口をもぐもぐさせながら、ふと頭に浮かんだ言葉を箸で茶碗に書きつける癖があった。鉛筆じゃないから何も見えないけれど、書かずにはいられない。茶碗以外にも、宙に書くこともあった。行儀が悪いからやめなさいと、母によく指摘された。

というか、今もそうだ。
箸では書かないように意識しているけれど、気がつくとぼーっとしているときに人差し指で空書きしている。大した意味もなく、同じ言葉を繰り返し書いている。

小・中学生のときは、ひたすら手紙や交換ノートを書いていた。小学生のころは家に帰って宿題の後に。中学生のころは授業中にこっそりと。そして毎日のように本を読んでいた。フィクショナルな世界に惹かれたのももちろんだけれど、文字自体を渇望した結果ともいえよう。

書くことと読むことは、わたしの生活の中心にある。
わたしはいつも何かを読もうとしていて、あるいは書こうとしているんだろう。

活字も好きだし、こうしてPC画面に文字を打ち込むのも好きだけれど、自分の手で文字を書き落とすのも大好きだ。だから美しい字に憧れるし、誰かの筆跡を真似したくもなる。逆に、書いてある文字の羅列が判読不能だったり、知らない言語だったりするとちょっとしたフラストレーションになる。
わたしは、わたしの愛する文字を自分のものにしたいし、その意味を知り尽くしたい。

わたしの並々ならぬ文字への愛は、朝の牛乳パックの記憶から始まる。

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